血圧値 120/75/75 酸素飽和度 98% 体温 36.4℃ 体重 68.1キロ
一昨日、えらいひさしぶりの麻雀を打ちに行った甥っ子の家ですが、京成本線の「お花茶屋駅」の近くにあります。
ここは僕の住む目黒の鷹番という街から行くには、東に進んでどんどん東京の中心地区を越えて上野・浅草辺りまで行き、そこから隅田川、荒川というこのメガロポリスの東端を区切る2本の大きな河を渡った地帯、に当たります。
この位置関係は、ちょうどニューヨーク市から、イーストリバーをマンハッタン橋で渡った、ブルックリン地区の雰囲気に似ていますね。
0600 起床 気分快 晴 ブルックリンは東京なら葛飾区・江東区・江戸川区か。オースターはパン屋のジェイコブさん、みたいな感じかな。 - にこたろう読書室の日乗
町工場があったり、労働者や移民が多く住んでいたり、向こう河岸に見える大都会に憧れる視線があったり。
この駅の一つ手前、西側には「堀切菖蒲園駅」、河を渡って対岸の足立区側には東武伊勢崎線「堀切駅」があります。
昔は、同じ堀切村であったものが、大正年間に荒川が開削されたことにより、東西に分断されたわけですね。
その歴史的な背景。
堀切村は、江戸時代には武蔵国葛飾郡に属した。明治維新後、小菅県を経て東京府に属し、1878年の郡区町村編制法により南葛飾郡の所属となった。
1889年5月1日の町村制施行に際して周辺各村と合併して南綾瀬村の大字となる。南綾瀬村は1928年2月1日に町制を施行して南綾瀬町となり、1932年10月1日に東京市に編入されて葛飾区の一部となった。
1930年代までは東京(江戸)近郊の農村地帯であり、堀切園をはじめとする菖蒲園が集まり著名な行楽地となった。しかし、東京市に編入される頃から都市化が進行し、環境の悪化から堀切園以外の菖蒲園は太平洋戦争期までに廃園となった。
高度経済成長期までに工業地として都市化は完了し、現在では住宅に小工場や堀切菖蒲園駅周辺の商店街が混在する地区となっている。
ここで思い出されるのは、こういうテーマ。
『永井荷風』
『3年B組金八先生』
『東京物語』
☆
今はアスファルトの車道である荒川放水路の両側は、荷風が歩いた頃は土手でした。
荷風については、また別稿で書きましょう。
生まれが深川の映画監督、小津安二郎は『東京物語』の舞台をこのあたりに選んでいます。
遠方の田舎から子供たちを訪ねて東京へやってきた老夫婦の話で、長男が開業する医院は堀切駅の近くという設定。娘も街はずれの小さい美容院の主ですが、どちらも都会に出てきて大成功したとは言えない境遇。
どちらの家でも歓迎されないことを知った老夫婦が、堀切橋にほど近い土手へと上って川を眺めるシーンがあります。
『東京物語』が撮られたのは1953年。
荒川土手や近くの住宅街の雰囲気は今もそう変わらないと思われます。
1953年の東京、人は着飾り、賑やかで、華やかで、ビルが建ち並び、ネオン輝く大都会と、地方の方達は思い描く筈です。
ところが、映画で描かれるこの風景。
お化け煙突。
煌びやかな東京の表舞台を支える、裏方的、端っこ的、そんな東京の象徴が『東京物語』の冒頭で映し出されるこの「火力発電所の煙突」です。
地味で、慎ましく、平凡に暮らす、地方の町と、変わらない人達が、変わらない暮らしをしている、そんな東京の物語なのです。
江戸、近代、現代という日本の歴史のかたわらには、有名無名の人間の営みと、この大きな河原の風景が連綿と続いてきたのだなあ、ということを、お花茶屋からの帰りの電車で考えました。
今度は堀切で電車を降りて、観て、歩いて、よろこんでみたいと思います。