にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0630 起床 曇 【僕の生涯の7つの場所5:目黒界隈は川がつくった都市の記憶】⑤の1 川の終わりは海の始まり ― 品川宿から目黒川の河口へ

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川の終わりは、どこにある?

 

目黒川をたどる旅も、いよいよ終盤です。

これまで、源流を探し、川がつくった谷を歩き、五反田や大崎の町の歴史を眺めてきました。

そして前回は、桜の名所になる前の目黒川を取り上げました。

工場があり、煙突が立ち並び、船が行き交う。

目黒川は、東京の産業と人々の暮らしを支えてきた川でした。

さて、今回は、その川が海へ出ていく場所を訪ねます。

川の終わりです。

 

 

でも、考えてみると、川の終わりとは、いったいどこなのでしょう。

水は上流から下流へ流れ、やがて海へ出ていきます。

地図を見れば、川の線が途切れる場所が河口です。

しかし、水の旅はそこで終わるわけではありません。海へ出た水は、海流や潮の動きに身を任せ、さらに遠くへ運ばれていきます。

川の終わりは、海の始まり。

今回は、そんな境界に立ってみたいと思います。

 

 

この写真は、1957年(昭和32年)に東京都品川区東品川1丁目(目黒川河口から天王洲方面)で撮影された光景だそうです。

 

品川宿と東海道

 

目黒川の下流には、江戸時代の東海道の宿場町、品川宿がありました。

江戸を出て東海道を西へ向かう旅人にとって、品川は最初の宿場です。

江戸の町を離れ、これから遠い旅へ出ていく人。

反対に、江戸を目指して長い道のりを歩いてきた人。

品川は、さまざまな人が行き交う場所でした。

 

 

 

品川宿 | 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会

 

 

いまの旧東海道を歩いてみると、往時の面影を残す場所がある一方、近代以降の建物も並び、町の姿が何度も変わってきたことが分かります。

東海道は陸の道です。

けれども、品川の歴史を考えるとき、陸路だけを見ていては不十分です。

すぐそばには海があり、そこへ注ぐ川がありました。

陸と海。

街道と船。

品川は、その二つが交わる場所でもあったのです。

 

品川湊と海の道

 

品川には、古くから港としての歴史もあります。

品川湊です。

中世以来、品川は海上交通や物資の流通と関わりを持ち、江戸時代にも江戸湾沿岸の重要な地域でした。

もちろん、当時の港の範囲や海岸線は、現在の地図とは違います。

いまでは陸地になっている場所も、かつては海や干潟に近かったかもしれません。

反対に、現在の河口の位置をそのまま昔の品川湊に重ねることもできません。

海岸線は、埋め立てや護岸工事によって変わってきたからです。

それでも、品川が陸の道だけでなく、海の道によっても支えられていたことは重要です。

 

 

東海道を歩く人々がいた。

海を通じて物資が運ばれていた。

そして、その近くを目黒川が流れていました。

 

川は、山や台地から水を集め、町を通り抜け、最後には海へ出ていきます。

その途中で、人間の暮らしや産業と結びついていくのです。

 

目黒川の河口は、昔から同じだったのか

 

ところで、ここで一つ、気になることがあります。

現在の目黒川の河口を地図で見ると、比較的まっすぐ海へ向かっているように見えます。

しかし、昔の地図を調べると、河口付近の川筋は、現在とは違っていたことが分かります。

明治期の目黒川は、いまのような直線的な流路ではありませんでした。

川は低地を蛇行しながら流れ、河口付近でも大きく迂回して海へ注いでいました。

右の現在の地図中の、八つ山通りが、左の地図中の蛇行する旧目黒川河道に当たります。

 

画像

 

これは旧河口の、現在の様子。

鯨塚のある利田(かがた)神社の辺りです。

 

 

1926年(寛永3年)に、洲崎(目黒川河口の品川湊の砂州)の地に沢庵宗彭が弁才天を勧請したのが起源です。

当時は「洲崎弁天」と呼ばれ、修験道当山派の修験者が堂宇を管理していたそうです。

 

 

「鯨塚」というものがあります。

1798年5月1日に品川沖に迷い込み、品川浦の漁師たちによって捕えられた鯨の供養塔です。

鯨の体長は16.5mありました。

当時は江戸市中が大騒ぎとなり、鯨を一目見んと野次馬が殺到したそうです。

11代将軍・徳川家斉も、この鯨を浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)まで曳かせて供覧したといいます。

 

お馴染み、『江戸名所図会』です。

 

(江戸名所図会 巻之ニ 第四冊 洲崎弁天)

 

 

ちゃんと書き込まれていますね。

東京都内で唯一の鯨塚だそうです。 

 

☆

 

ここで考えたいのは、川が曲がっていたこと自体ではありません。

なぜ、その川筋が変わったのか。

そして、誰が、何のために変えたのか。

 

川の流れは、自然の力だけで決まるわけではありません。

海の波が運ぶ砂によって河口が塞がれたり、川が運ぶ土砂が堆積したりすることもあります。

河口は、川の水が一方的に海へ流れ込むだけの場所ではないのです。

川と海が出会い、互いの力が作用する場所でもあります。

そして、そこへ人間の都合が加わります。

洪水を防ぎたい。

川の流れを安定させたい。

町を守りたい。

そうした願いが、川の形を変えていくことになります。

 

川のしっぽ

 

ここで、以前から考えていたことを思い出します。

川を一本の生き物にたとえてみたら、どうでしょう。

源流は頭。

支流は、途中から伸びてくる枝のようなもの。

そして、海へ向かって最後に伸びていく河口は、その生き物のしっぽです。

 

 

もちろん、これは地理学の用語ではありません。

見立てです。

川は山から生まれ、町を通り抜け、最後に海へたどり着きます。

その終わりにあたる場所を、しっぽと考えてみる。

すると、不思議なことに気づきます。

 

目黒川のしっぽは、自然がつくった形のままではなかったのです。

人間が川筋を変え、流れを整え、海へ出る場所をつくり直してきました。

では、その工事によって、何が変わったのでしょう。

川の形だけでしょうか。

 

いいえ。

川のそばにあった町も、橋も、神社も、川との位置関係を変えていきました。

次回は、その変化を具体的に見てみたいと思います。

 

舞台は、目黒川の河口に近い品川。

そして、荏原神社です。

川のしっぽは、人間の手によって、どのように形を変えられたのでしょうか。

0630 起床 晴 【将棋界の新しい動き】広瀬九段、やったなあ! これは意気に感じた勝負でした。

血圧値 129/83/72 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 67.1キロ 運勢 Temperance

 

ひさびさに、将棋界の新しい動きを見てみましょう。

これは昨日の対局。

 

【写真】広瀬章人九段(2026年10月撮影)

 

【王座戦】初登場の広瀬章人九段が初防衛目指した伊藤匠王座下して初の王座獲得

 

いやー、これは広瀬、頑張った!

今回の第74期王座戦五番勝負は、伊藤匠王座(叡王)に広瀬章人九段が挑戦するという顔合わせでした。

伊藤匠さんといえば、藤井聡太さんの八冠独占を崩し、昨年の王座戦でも藤井さんを破ってタイトルを獲得した棋士。

藤井さんに続く、現代将棋を代表する強豪の一人です。

ところが、今回の王座戦で伊藤王座の前に立ちはだかったのは、藤井さんではありませんでした。

広瀬章人九段だったのです。

 

挑戦者・広瀬章人九段が優勢に立ち夜戦へ突入!伊藤匠王座は白熱の終盤戦で逆転防衛なるか/将棋・王座戦第5局

 

じつは、この王座戦の挑戦者決定戦に進んだのは、藤井聡太竜王・名人と広瀬章人九段でした。

 

2026年8月5日、第74期王座戦挑戦者決定戦。

 

昨年、伊藤さんに王座を奪われた藤井さんにとっては、王座奪還と七冠復帰を懸けた大一番です。

ところが、勝ったのは広瀬九段でした。

しかも、藤井さんが圧倒的に優勢と見られた局面からの大逆転。

あっと驚く結末でした。

天下の藤井さんが、こういう負け方をするとは。

将棋というのは、本当に最後まで分かりません。

広瀬九段は、この大勝負を制して堂々の挑戦者となりました。

 

 

藤井さんの数値はこの局面の直前で圧倒的な優勢を示しています。

これはこの先ほぼ勝ちがある、ということです。

上図のように桂銀と打って玉を追って、この7四に銀を捨てる妙手で以下8三の金を王手で取って、ほどなく詰み。

 

秒読みで、しかもちょっと見えにくい、並の棋士なら見逃して当然くらいの詰み筋といっても、天下の藤井がこれを間違えるとは、という驚きの逆転劇。

 

【写真・画像】藤井聡太六冠、3年ぶりに“挑戦者”に!王座奪還&七冠復帰かけ同学年・伊藤匠王座とのリベンジマッチ決定 五番勝負は来月2日開幕 1枚目

 

しかし、広瀬さん、挑戦権をつかんだからといって、タイトルが手に入るわけではありません。

相手は、あの伊藤匠王座です。

 

伊藤さんは、藤井さんの八冠独占を崩した棋士。

しかも、大勝負での勝負強さには定評があります。

 

第74期王座戦五番勝負は、第1局を広瀬九段が制したものの、第2局、第3局は伊藤王座が連勝。

広瀬九段は、あとがないところまで追い込まれました。

しかし、第4局で勝利を収め、勝負を2勝2敗のタイに戻します。

 

そして迎えた最終第5局。

勝てば王座獲得、負ければタイトル奪取ならず。

まさに、最後の一局にすべてを懸ける戦いです。

 

そして、広瀬九段が勝った!

王座戦初登場で、初の王座獲得。

これは見事です。

 

【写真・画像】【第74期王座戦】伊藤匠王座VS広瀬章人九段|日程・会場・結果速報まとめ 中継情報も【将棋】 1枚目

 

藤井聡太さんがタイトル戦の中心にいた時代。

そこに伊藤匠さんが登場し、藤井さんからタイトルを奪いました。

そして今回、藤井さんを破って挑戦権をつかんだ広瀬九段が、伊藤王座をも倒した。

もちろん、一度タイトルを獲得したからといって、すぐに将棋界の勢力図が変わるわけではありません。

それでも、タイトル争いに新しい顔が加わることには、大きな意味があると思います。

 

将棋界には、財政面の問題や、女流棋士の棋士編入をめぐる問題など、さまざまな課題があります。

そうしたなかで、盤上では棋士たちが真剣勝負を繰り広げ、新しい展開が生まれていく。

将棋界がこれからどんな方向に進んでいくのか。

藤井さん、伊藤さん、そして広瀬さん。

この三人をはじめ、ほかの棋士たちがどのような戦いを見せてくれるのか、楽しみです。

 

何はともあれ、今回の広瀬九段の健闘には、拍手!

広瀬九段、やったなあ!

0630 起床 曇 【僕の生涯の7つの場所5:目黒界隈】番外編① 55年前の自分に再会する — 目黒区立不動小学校のクラス会

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目黒は僕が生まれ育った場所です。
なので、通った小学校は「目黒区立不動小学校」。

現在の校舎は僕たちが卒業後、ほどなく建て替わっていますが。

それまでは、木造の校舎でした。

 

 

ここのところ、この小学校の僕たちのクラス会が毎年のように開催されてます。

突然亡くなられてしまいましたが、5・6学年時の担任だったO先生との御縁です。

 

先生は絵を描かれるかたでした。

先生の展覧会などに集まったのが始まりで、昨年は遺作展での参集でした。

先生は急逝されてしまいましたが、こうして同級生たちが集まる御縁を残してくださったのですね。

 

小学校時代の同じクラスのメンバーが、今になっても10数人規模、クラスの半数近くが集まるというのは、なかなかないことですよね!

 

クラス会 の検索結果 - にこたろう読書室の日乗

 

今年は、お昼の会食の前に母校を訪ねて、あるものを見学することになりました。

 

1971年3月のタイムスタンプのある卒業記念プレート。

なんと、もう55年前になるんですね。

色付きのタイルにニードルで線を描き、表面の色を剥がして生き物の絵を描く。

それを窯で焼く。

卒業記念品として、体育館の外壁に貼り付けられました。

この中に僕の描いたものもあるのですが、よく覚えていないなあ。

でも、たぶん、アレだと思う。

筆跡と同じで、絵のタッチも変わらないんですね。

面白い。

 

次の年の卒業記念プレートまで、残っているようです。

卒業後、校舎が建て替わり、体育館も新しくなりました。

それでも、あえてこの壁画を遺してくださったことに感謝です。

 

6年1組、38人。

55年前の僕たちが、そこにいる。

 

今の僕たちと、あの頃の僕たち。

なんか、泣けてきますねえ。

 

 

ではまた、来年。

それまで、元気でね。

☆

 

【僕たちの卒業の年、1971年(昭和46年)の世相を表す10大ニュース】

 

僕たちが小学校を卒業した1971年。

いったい、どんな時代だったのでしょうか。

日本と世界の出来事から、世相を表す10項目を振り返ってみます。

 

① 沖縄返還協定に調印

6月、沖縄返還協定に調印。翌1972年5月の本土復帰へ向け、大きな一歩となりました。

② ニクソン・ショックで世界経済が激変

8月、アメリカが金とドルの交換停止を発表。1ドル=360円の固定相場制が揺らぎ、日本経済にも大きな影響が及びました。

③ 環境庁が発足

7月、公害問題への対応を担う環境庁が発足。高度経済成長の陰で深刻化した公害が、国の重要課題になっていました。

④ 米中接近が始まる

7月、キッシンジャー米大統領補佐官が中国を極秘訪問。米中関係の歴史的な転換が進みました。

⑤ 多摩ニュータウンへの入居が始まる

3月、多摩ニュータウンの諏訪・永山地区で入居が始まりました。人口増加と住宅不足を背景に、郊外へ広がる新しい生活が始まったのです。

⑥ 『仮面ライダー』が放送開始

4月、テレビ放送がスタート。変身ヒーローの人気を牽引し、子どもたちの記憶に残る作品となりました。

⑦ カップヌードルが発売される

9月、日清食品がカップヌードルを発売。お湯を注ぐだけで食べられる即席麺は、後の日本の食生活を象徴する商品になりました。

⑧ 全日空機と自衛隊機が空中衝突

7月、岩手県雫石町上空で旅客機と自衛隊機が衝突。乗客乗員162人が亡くなる重大事故となりました。

⑨ アポロ14号が月面着陸

2月、アメリカのアポロ14号が月面着陸に成功。宇宙開発が世界の注目を集めていた時代です。

⑩ テレビのカラー化が進む

10月、NHK総合テレビの放送が全面カラー化。家庭のテレビも白黒からカラーへと移り変わり、映像を通じて見る世界が変わっていきました。

 

☆

 

この10項目を振り返ると、当時の日本の姿が見えてきます。

暮らしの変化。

社会の変化。

そして、世界の変化。

戦後の復興を経た日本が、豊かさを追い求める一方で、その成長がもたらした問題にも直面し始めた時代でした。

 

あの頃、僕たちはまだ12歳。

社会が大きく変わっていくなかで、小学校を巣立っていったのですね。

0630 起床 雨 【僕の生涯の7つの場所5:目黒界隈は川がつくった都市の記憶】④の2 目黒川は、なぜ汚れたのか ― 高度成長の陰で

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目黒川について、昔を知る人に聞くと、こんな言葉が返ってくることがあります。

「昔は臭い川だったよ」

 

今の目黒川といえば、桜の名所です。

春になると川沿いに人が集まり、花を眺めながら歩いていきます。

けれども、かつての目黒川は、誰もが散歩を楽しみたくなるような川ではありませんでした。

水が汚れ、臭いが漂い、川というより排水路のように感じられる時代があったのです。

どうして、そんなことになったのでしょう。

 

 

前回は、五反田から大崎にかけて、工場と水運を支えた目黒川をたどりました。

今回は、その続きです。

川が産業を支え、町が豊かになっていく。その過程で、川に何が起きたのかを考えてみたいと思います。

 

豊かになる町、その陰で

 

戦後の日本は、復興から高度経済成長へと進んでいきました。

工場が動き、製品がつくられ、働く人が集まり、都市は大きくなっていきます。

暮らしも変わりました。

電気製品が普及し、生活は便利になり、町には新しい建物が増えていく。

私たちの世代にとっては、そうした変化が、昭和という時代の記憶と結びついているのではないでしょうか。

 

しかし、経済が成長する一方で、環境への配慮は十分とはいえませんでした。

工場から出る排水。

家庭から流れ込む生活排水。

 

(イメージ)

 

人口が増え、都市が拡大すれば、川に流れ込むものも増えていきます。

排水を適切に処理する仕組みが十分に整わないまま、産業と生活の規模が大きくなっていけば、川への負担は重くなります。

目黒川の汚濁も、そうした時代のなかで深刻になっていきました。

もちろん、汚染の原因をひとつに絞ることはできません。

工場排水だけでも、生活排水だけでもない。

産業のあり方、都市の人口、下水道の整備状況など、複数の要因が重なっていました。

 

町が豊かになることと、川がきれいであること。

この二つは、必ずしも同じ速度では進まなかったのです。

 

 目黒川の水質汚染史・年表

 

年代

水質汚染・改善の動き

根拠資料

明治〜昭和初期

目黒川沿いに工場が立地し、川は工業用水や舟運などに利用された。工場排水がいつ、どの程度水質に影響したかは、別途、当時の資料で確認する必要がある。

工場の沿革・古写真。区の資料も参照

昭和30年代(1955〜1964年)

高度経済成長と都市化が進み、人口増加に伴う生活排水や工場排水が河川の汚濁源となった。目黒川の支流や上流域でも都市化が進んだ。

東京都水産試験場の1960〜61年調査、目黒区の水質浄化対策計画

 
東京都島しょ農林水産総合センター

昭和40年代まで(1960年代末ごろまで)

目黒川は著しく汚濁していた。区の計画は、この時期を戦後の深刻な汚濁期として位置づけている。

目黒区『目黒川水質浄化対策計画』

昭和40年代(1965〜1974年)

下水道の整備や水質改善の取り組みが進み始める。一方、昭和40年代後半にも、生活排水・工場排水による深刻な汚濁が社会問題として残っていた。

品川区『広報しながわ』昭和51年8月1日号

昭和51年(1976年)

品川区・目黒区・大田区による「目黒川浄化対策三区合同協議会」が設立された。水質調査、排水口の把握、行政への要望など、地域ぐるみの浄化運動が進められた。

品川区『広報しながわ』昭和51年8月1日号

昭和40〜60年代(1965〜1989年)

合流式下水道の整備などにより、平常時の水質は改善していった。ただし、下水道が整備されても、雨天時の排水や川底にたまった汚泥の問題は残った。

目黒区『目黒川水浄化対策計画』

平成7年度(1995年度)〜

落合水再生センターで高度処理した再生水を目黒川へ導水し、維持水量を確保する取り組みが始まった。

品川区「河川について」

平成18年(2006年)以降

河床にたまった汚泥を取り除く浚渫が、水質改善策として重要な課題となった。2012年の品川区の発表では、平成18年以降に浚渫が行われていないことが問題として取り上げられた。

品川区「目黒川の水質改善対策についての要望書」

平成21〜23年度(2009〜2011年度)

川底の酸素不足を改善するため、高濃度酸素溶解水を供給する実験を実施。

目黒区『目黒川水質浄化対策計画』概要版

平成22年度(2010年度)

下水の吐口からごみなどが流出するのを抑える水面制御装置の設置が完了。

同計画概要版

平成28〜30年度(2016〜2018年度)

川底の状態を改善するため、底質改善材の散布実験を実施。平成30年度には悪臭や白濁化の発生メカニズムを調べる現地調査も行われた。

同計画概要版

令和2年(2020年)6月

目黒区が『目黒川水質浄化対策計画』を策定。悪臭、白濁化、スカム(浮遊する有機汚濁物)などを抑えるため、河川内対策と下水道・流域対策を組み合わせた方針を示した。

目黒区『目黒川水質浄化対策計画』

現在の課題

平常時の水質は大きく改善した一方、大雨時には合流式下水道から汚濁物を含む水が流入することがある。下流では潮の干満によって水が滞留し、川底の酸素不足や硫化物の発生が悪臭・白濁化につながる。

目黒区『目黒川水質浄化対策計画』

 

【資料】

品川区における目黒川水質改善の取り組みについて|品川区

「昔は臭かった」という記憶

 

「昔は臭い川だった」。

この言葉は、短いけれども、いろいろなことを伝えてくれます。

水が濁っていたというだけではありません。

川の近くを歩くとき、窓を開けるとき、橋を渡るとき。

そこに暮らしていた人々は、日々の生活のなかで、川の変化を感じていたのかもしれません。

 

現在、目黒川の水質をめぐる資料を読むと、かつての汚濁が深刻な問題だったことがわかります。

 

当時の川は、景色を楽しむ場所というよりも、都市から出る排水を受け止める場所になっていた面がありました。

 

ただ、ここで考えたいのは、昔の川を一括して「汚かった」と片づけてしまわないことです。

時代によって、水質も、川沿いの暮らしも、地域ごとの状況も違います。

どの場所で、いつごろ、どのような臭いがしたのか。

その記憶をたどるには、実際に川のそばで暮らした人の話や、当時の新聞、行政資料などを確かめる必要があります。

 

 

もし、皆さんのなかに、昔の目黒川を覚えている方がいらっしゃったら、ぜひ教えていただきたいと思います。

いつごろのことだったのか。

どのあたりの川だったのか。

そして、今の目黒川を見て、どんなことを思うのか。

そうした話のひとつひとつが、地図や統計だけでは伝わらない、町の歴史になると思うのです。

 

川を汚したのは、誰だったのか

 

ここで、少し考えてみたいことがあります。

川を汚したのは、誰だったのでしょう。

工場でしょうか。

生活排水を流した人々でしょうか。

それとも、環境より経済成長を優先した社会全体だったのでしょうか。

 

 

もちろん、排水を出した個々の事業者の責任を曖昧にしてはいけません。

一方で、当時の社会が、産業の発展と生活の向上を急ぐなかで、環境への影響を十分に考えられなかったという構造的な問題もありました。

 

便利な製品をつくり、豊かな暮らしを実現する。

そのために必要な工場を町につくり、川の水を利用する。

ところが、使い終わった水をどうするかという問題は、後回しになってしまった。

そんな構図が見えてきます。

 

僕たちは、過去の人々を簡単に責めることはできません。

現在の便利な生活も、過去の産業や都市の発展の上に成り立っているからです。

けれども、過去を美化する必要もありません。

成長の陰で、何が失われたのか。

その問いを残しておくことは、今を生きる私たちにとっても大切なことだと思います。

 

 

川は、少しずつ変わっていった

 

では、目黒川は、そのまま汚れた川であり続けたのでしょうか。

そうではありません。

下水道の整備や排水規制、水質改善の取り組みなどが進められ、目黒川の水環境は、かつての深刻な汚濁の時代から改善してきました。

 

ただし、すべての問題がなくなったわけではありません。

雨が降った後などには、水の濁りや臭いが気になることもあります。

都市の川は、上流から流れてくる水だけで成り立っているわけではありません。

下水道の仕組み、雨水の流入、潮の満ち引き、川底の状態など、さまざまな条件の影響を受けています。

そのため、ある日に水がきれいに見えたからといって、いつでも水質がよいとは限りません。

逆に、ある日の臭いだけで、川全体の水質を判断することもできません。

 

 

【速報】東京 目黒川が氾濫危険水位に(NHKニュース)

昨今、しばしば目にする大雨の時の氾濫の危機。

「下水も溢れるので感染症の危険もあります」

 

目黒川が桜の名所になったことと、水環境の問題が完全に解決したことは、別の話なのです。

それでも、かつての川を知る人が、今の川沿いを歩き、桜を眺めることができる。

その変化は、都市の環境が固定されたものではなく、人間の取り組みによって変わり得ることを示しているのだと思います。

 

桜の川の、その下に

 

目黒川を歩いていると、今の風景ばかりに目が向きます。

水面に映るビル。

川沿いの遊歩道。

春になれば、枝を覆う桜の花。

けれども、その風景の下には、別の時代の川が流れています。

工場のそばを流れ、物を運び、都市の発展を支えた川。

そして、町が豊かになる一方で、汚れ、臭いを放つようになった川。

その川を少しでもよい状態に戻そうと、仕組みを整え、対策を続けてきた人々の歴史もあります。

 

 

川は、町の発展を映す鏡だったのかもしれません。

町が何を求め、何を優先し、何を後回しにしたのか。

その結果が、水の色や臭いにまで現れていたのです。

今、桜の花を楽しむことは、もちろん悪いことではありません。

むしろ、かつての川を知ればこそ、今の風景をありがたく感じることもあるでしょう。

ただ、桜が咲くことと、川が本来の姿を取り戻すことは、同じではないのかもしれません。

 

美しい景色の向こうに、まだ考えるべきことが残っている。

そう思いながら、もう少し先まで歩いてみたいと思います。

目黒川は、まだまだ多くの記憶を抱えています。

0630 起床 曇 【僕の生涯の7つの場所5:目黒界隈は川がつくった都市の記憶】④の1 工業の川 ― 桜の川になる前の目黒川

血圧値 117/78/71 酸素飽和度 99% 体温 35.9℃ 体重 67.2キロ 運勢 The Magician :R

 

 

目黒川といえば、いまでは桜の名所ですね。

春になると川沿いの桜が咲き、たくさんの人が訪れます。

けれども、目黒川は、初めから花見のための川だったわけではありません。

かつて、この川は町の産業を支える川でした。

工場があり、荷物を運ぶ船が行き交い、川沿いには人々の暮らしがありました。水を運び、物を運び、町の発展を支えた川だったのです。

今回は、五反田から大崎、さらに品川の旧東海道へと、目黒川を下ってみたいと思います。

手がかりは、昔の写真です。

写真を一枚ずつ見ながら、桜の川になる前の目黒川をたどってみましょう。

 

 

いまの目黒川からは、かつての工業地帯を想像するのは難しいかもしれません。

しかし、川沿いの風景を少しずつさかのぼっていくと、町がどのように変わってきたのかが見えてきます。

 

五反田駅と池上線

 

 

五反田駅の周辺は、鉄道の発達とともに姿を変えてきました。

池上電気鉄道の五反田駅は、山手線の上に乗り入れる形で建設されました。当時は、さらに白金方面へ路線を延ばす構想もあったようです。

しかし、その計画は実現しませんでした。

鉄道の計画にも、町の発展をめぐる夢と、実現しなかった未来が残されています。

 

 

現在の五反田駅周辺を見ると、鉄道と川が近い場所で交わっていることが分かります。

目黒川は、町の中を流れるだけの川ではありません。鉄道や道路、工場や倉庫とともに、都市の形をつくってきた川でもあるのです。

 

大崎橋と工場の町

 

 

昔の大崎橋の写真です。

いまの風景と見比べると、橋の姿も、その周囲に広がっていた町並みも、ずいぶん違って見えます。

目黒川沿いでは、明治から大正、昭和にかけて工場が増えていきました。東京の市街地が広がるにつれて、川の周辺も住宅地だけではなく、工業の町へと変わっていったのです。

 

その変化を象徴する場所の一つが、森永製菓の大崎工場でした。

 

 

 

森永橋という名前にも、かつてこの場所にあった工場の記憶が残っています。

森永製菓は、明治32年(1899)に創業しました。その後、大崎に工場を構え、目黒川沿いの工業地帯の一角を担うことになります。

 

 

昔のエンゼルマークについている「T.M」の文字は、創立者「森永太一郎」のイニシャルです。

滞米十一年、西洋菓子のつくり方を修得して帰国した森永太一郎は、明治32年8月15日、当時の東京市赤坂区(現港区)溜池二番地に、ささやかながら二坪の「森永西洋菓子製造所」をはじめます。

その森永ののちの主力工場(大崎第二工場)がここ目黒川のほとりにあったのです。

 

 

いまでは再開発された町の中に、かつての工場の姿を見つけることは簡単ではありません。

それでも、橋の名前や地名、古い写真の中には、工業の町だったころの記憶が残っています。

 

煙突が並ぶ川

 

 

こちらは、要津橋(ようじんばし)付近の昔の風景です。

煙突が立ち並び、工場が川のすぐそばまで迫っています。

今はこんな感じですね。

 

 

川沿いに工場が集まったのは、そこに水があったからでしょう。

工業用水を確保できること。船を使って物資を運べること。そして、工場で働く人々が集まる町が近くにあること。

川は、こうした条件を結びつける役割を果たしていました。

 

現在の目黒川沿いを歩いても、当時の工場の姿をそのまま見ることはできません。

けれども、古い写真に写る煙突や建物を眺めていると、ここがかつて、東京の産業を支える場所の一つだったことが伝わってきます。

 

川底をさらう

 

 

川は、流れていればそれでよい、というものではありません。

土砂がたまれば、川底をさらう必要があります。洪水を防ぐためにも、船を通すためにも、川を維持する作業が欠かせませんでした。

写真に写っているのは、目黒川の浚渫工事です。

川の姿は自然に保たれていたわけではなく、人の手によって維持され、変えられてきたのです。

 

川を行き交う船

 

 

この写真には、目黒川を行き交う船が写っています。

船が運んでいたのは、工場の製品や資材だけではありませんでした。

写真に写るのは、し尿を運ぶ船です。

いまの生活からは想像しにくいかもしれませんが、下水道が十分に整備される前の東京では、し尿の収集と運搬も、都市を維持するために欠かせない仕事でした。

川は、都市の生産活動を支える一方で、都市生活から出るものを運ぶ経路でもあったのです。

僕が5歳ころの目黒川は、こんな感じだったのですね。

もちろん、当時の川を自分の記憶だけで語れるわけではありません。

それでも、こうした写真を眺めていると、僕が生まれ育った時代の東京が、どんな町だったのか、少しずつ実感できる気がします。

 

鎮守橋と荏原神社

 

 

目黒川をさらに下っていくと、鎮守橋があります。

このあたりでは、川の流れと町の歴史、そして神社との関係も見えてきます。

荏原神社は、南品川の人々にとって大切な鎮守でした。川の改修によって周辺の地形や川筋が変わったこともあり、神社へ参拝するための橋が必要になったと伝えられています。

 

 

橋は、人が川を渡るための設備であるだけではありません。

町と町を結び、人々の暮らしや信仰を支える場所でもありました。

 

旧東海道と品川橋

 

 

さらに下流へ進むと、旧東海道に近づきます。

品川は、江戸の町の入口にあたる宿場町でした。東海道を往来する人々が行き交い、海や川を通じた物流も盛んな地域です。

 

 

「品川橋の今昔 この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。
〔品川橋〕は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
〔品川橋〕がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。平成三年四月一日 品川区」

 

この周辺では、目黒川の流れそのものも変わってきました。

川は、現在の地図に描かれている姿のまま、昔から流れていたわけではありません。洪水対策や町の整備にともなって、川筋の改修や直線化が進められました。

目黒区の資料では、大正12年(1923)に始まった改修工事が一時中断を経て進められ、昭和12年(1937)に完成したとされています。一方、品川区の資料では、河口部を含む改修が昭和14年(1939)まで続いたと説明されています。

工事の範囲によって時期が異なるようです。

いずれにしても、現在の目黒川は、自然の流れをそのまま残した川ではありません。洪水から町を守り、都市の機能を維持するために、人の手が加えられてきた川なのです。

 

(写真は明治期~大正期、蛇行しながら流れる目黒川)

 

船入場と川の現在

 

かつての目黒川には、船が出入りするための場所もありました。

船入場という名前にも、川が物流の経路として使われていた時代の名残があります。

 



東京都が洪水調整池を地下に設置。

大雨が降り、高水位を超えると自動的に調節池へ水が流れ込む仕組みが護岸に設けられています。

目黒川船入場は都内で最初に整備された地下箱式調節池だそうで、1990年(平成2年)に完成し、1991年(平成3年)から供用開始。

 

 

現在では、川の役割も変わっています。

かつては工業用水や船運が重要でしたが、いまの都市河川には、洪水対策や水辺環境の維持といった役割もあります。

川の姿が変わるたびに、町と川の関係も変わってきたのです。

 

河口に広がっていた風景

 

 

こちらは、河口に近い場所の写真です。

倉庫が並び、その向こうには品川火力発電所が見えます。

川の下流は、海と都市をつなぐ場所でもありました。船で物を運び、倉庫に蓄え、工場や町へと送り出す。目黒川は、東京の産業と物流を支える水路の一つだったのです。

いまの目黒川を知っている人にとっては、少し意外な風景かもしれません。

桜の季節に人々が歩く川沿いが、かつては工場や倉庫、船の行き交う場所だったのですから。

 

桜の川になる前に

 

こうして古い写真をたどってみると、目黒川が町の発展を支えてきたことが分かります。

水を運び、物を運び、工場を支え、洪水から町を守る。

そのために川は整備され、川沿いには工場や倉庫が建ち並びました。

けれども、町が発展すれば、川に流れ込むものも増えていきます。

工場が増え、人が集まり、生活が便利になる。その一方で、川は産業や暮らしから出る排水も受け止めることになりました。

川は、町の発展を支える存在であると同時に、その発展がもたらす問題を映し出す存在にもなっていったのです。

古い写真に写っているのは、工場や船や橋だけではありません。

そこには、その時代を生きた人々の暮らしがあり、僕自身の子ども時代につながる風景もあります。

では、あのころの目黒川は、どんな川だったのでしょう。

 

次回は、目黒川の汚れと、それが人々の暮らしに何をもたらしたのかをたどってみたいと思います。

0630 起床 曇 【僕の生涯の7つの場所5:目黒界隈は川がつくった都市の記憶】③の2 「目黒」という名前の謎 (後編) ― 川と地形が残した町の記憶

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僕の生涯の7つの場所。

第5番目は、目黒界隈です。

前編では、目黒川の太鼓橋から行人坂、目黒不動へと、江戸の人々が歩いた道をたどってみました。

川を渡り、坂を上り、寺社へ向かう。

そこには、信仰のために訪れる人々がいて、参詣者を迎える商いがあり、日々の暮らしを営む人々がいました。

川があり、道があり、人が集まる。

そうして、目黒という町が形づくられてきたのでしょう。

 

 

今回は、その続きを歩いてみます。

目黒不動から、もうひとつの場所へ。

大鳥神社です。

そして、考えてみたいことがあります。

そもそも、「目黒」という名前は、どこから来たのでしょうか。

毎日のように目にする地名なのに、その由来を説明しようとすると、意外に難しいものです。

 

 

目黒不動が、広い地域から参詣者を集めた寺院だったとすれば、大鳥神社は、地域の暮らしや祭礼を考える入口にもなります。

 

目黒区最古の神社である「大鳥神社(おおとりじんじゃ)」は、かつての目黒村(それ以前は下目黒村)の総鎮守です。

11月に行われる酉の市でも知られます。

 

(イメージ)

 

この場所に社殿が造営されたのは、大同元年(806年)のこと。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の白鳥伝説との関わりが深い神社であることから大鳥神社の名がついたといわれ、日本各地の大鳥神社を名乗る神社と区別するため、「目黒大鳥神社」とも呼ばれます。

 

祭神は日本武尊とその妻である弟橘媛(オトタチバナヒメ)と、古くからこの地でお祀りされてきた国常立尊(クニノトコタチノミコト)を合祀しています。

 

神社には、日常とは少し違う時間があります。

祭礼の日には人々が集まり、地域のつながりが確かめられる。

普段はそれぞれの仕事や暮らしに追われていても、祭りの日には、同じ土地に暮らす人々として顔を合わせる。

そうした営みが、長い時間をかけて地域の記憶になっていきます。

 

目黒不動のように、遠くから人を呼び寄せる場所もあれば、大鳥神社のように、地域の人々の信仰や祭礼を考える手がかりになる場所もある。

 

 

寺社の歴史をたどると、目黒が単なる江戸の郊外ではなく、人々の暮らしと交流が営まれる土地だったことが見えてきます。

 

ただし、ここで忘れてはいけないのは、目黒の町が寺社だけでできたわけではない、ということです。

川沿いには水に関わる暮らしがあり、台地の上や斜面には畑や住まいがありました。

江戸へ向かう道があり、農作物などを運ぶ人々がいた。

参詣のために訪れる人もいれば、毎日の仕事のために道を歩く人もいた。

名所としての目黒と、生活の場としての目黒。

その両方を考えてみたいと思います。

 

☆

 

「目黒」という地名。

どうして、そう呼ばれるようになったのでしょう。

 

 

地名というのは不思議なものです。

毎日使っているのに、その由来を知らない。

しかも、古い地名ほど、いつ、誰が、どんな理由で名づけたのか、分からなくなっていることがあります。

目黒も、そのひとつです。

 

地名の由来については、いくつかの説が伝えられています。

地形に関係するという説。

馬や畔道に関係するという説。

そして、目黒不動に由来するという説。

それぞれに、なるほどと思わせるところがあります。

けれども、どれかひとつが決定的な定説になっているわけではありません。

ここは、少し立ち止まって考えてみたいところです。

 

地名の由来を考えるとき、僕はまず、その土地の風景を思い浮かべてみたくなります。

目黒川が流れ、その両側には台地が広がっている。

川沿いの低地から坂を上れば、周囲を見渡せる高い場所に出る。

谷があり、斜面があり、台地がある。

 

 

第2回で歩いたように、目黒は決して平らな土地ではありません。

こうした地形は、昔の人々にとって、今よりずっと身近なものだったはずです。

道を選ぶにも、家を建てるにも、畑をつくるにも、水の流れや土地の高低差を意識しなければならなかったでしょう。

土地の特徴が、地名に結びつくことは珍しくありません。

しかし、だからといって、「目黒」という名前も地形に由来する、と断定することはできません。

 

地名の研究には、古い文献にどのように記されているか、同じような名前がほかの地域にあるか、音や文字がどのように変化してきたか、といった検討が必要です。

いまの風景を眺めて、もっともらしい由来を思いつくことと、それが歴史的に正しいと確かめられることは、別なのです。

それでも、地名をきっかけに土地を歩いてみると、見慣れた街の風景が違って見えてきます。

名前の由来が分からないからこそ、考える余地が残されている。

そこが、地名の面白さなのかもしれません。

 

もうひとつ、気になる説があります。

目黒不動があったから、目黒という地名が生まれたのではないか、という考え方です。

たしかに、目黒不動は、この地域の歴史を考えるうえで重要な存在です。

長く信仰を集め、江戸時代には多くの参詣者が訪れました。

 

しかし、ここで考えたいのは、名前と場所の関係です。

目黒不動が先にあって、周囲がその名で呼ばれるようになったのでしょうか。

それとも、すでに目黒という地名があり、その土地にある不動尊が「目黒不動」と呼ばれるようになったのでしょうか。

 

これは、簡単には決められません。

地名の由来を考えるには、その名前が文献に現れる時期と、寺社の歴史を照らし合わせる必要があります。

現在、私たちが当たり前のように使っている「目黒不動」という名前も、長い歴史の中で定着してきたものです。

名前があるから、その名前の由来も明らかなはずだ。

つい、そんなふうに考えてしまいます。

けれども、実際には、名前が残っていても、その名づけの理由は失われていることがあるのです。

町の名前も、寺社の名前も、昔の人々が残してくれた手がかりではあります。

ただし、それをどう読み解くかは、また別の問題なのですね。

 

☆

 

目黒の歴史をたどっていると、もうひとつ大きな変化に気づきます。

江戸時代の目黒は、江戸の中心から少し離れた郊外でした。

寺社があり、農村があり、参詣や行楽に訪れる人々がいた。

それが、時代とともに変わっていきます。

鉄道が通り、住宅地が広がり、道路が整備される。

田畑だった場所には建物が建ち、かつての川は暗渠となり、街の姿も大きく変わりました。

 

第1回で考えた、姿を消した川。

第2回で歩いた、川が刻んだ谷と台地。

そして今回の、橋や坂道、寺社に残る人々の歴史。

それらは、別々の話ではありません。

同じ土地に、異なる時代の暮らしが重なっているのです。

 

地形は簡単には変わりません。

しかし、その上で営まれる人間の暮らしは変わります。

川の流れが変わり、道が変わり、土地の使われ方が変わっても、昔の地形や地名の一部は残っていく。

目黒という名前も、そのひとつです。

名前の由来が完全には分からなくても、長い時間を生き延びてきた名前であることに変わりはありません。

 

結局、「目黒」という名前は、どこから来たのでしょう。

残念ながら、ここで明快な答えを出すことはできません。

いくつかの説はあります。

それぞれに考える価値もあります。

しかし、確かな根拠がないまま、ひとつの説を正解としてしまうのは避けたいと思います。

 

分からないことは、分からない。

それでも、調べたり、歩いたり、考えたりすることはできます。

むしろ、答えが簡単に出ないからこそ、土地への関心が続いていくのかもしれません。

目黒川をたどり、源流を探す。

川が刻んだ谷を歩く。

橋を渡り、坂を上り、寺社を訪ねる。

そうしているうちに、目黒という町が、ただ現在の地図に記された地名ではなくなってきます。

そこには、川の流れがあり、人々の暮らしがあり、江戸の記憶があり、現代の東京へと続く時間があります。

 

一本の川をたどることは、土地の記憶をたどることでもある。

そして、土地の記憶をたどることは、自分が暮らしてきた街を、もう一度見つめ直すことでもあるのでしょう。

 

昔をたどると。自分の今が視える。

 

「目黒」という名前の謎は、まだ解けていません。

けれども、謎を残したまま歩き続けるのも、悪くないものです。

0630 起床 曇 【僕の生涯の7つの場所5:目黒界隈は川がつくった都市の記憶】③の1 目黒という町をつくった川(前編) ― 人は川沿いに集まった

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僕の生涯の7つの場所。

第5番目は、目黒界隈です。

第1回では、目黒川の源流を探しました。

川はどこから始まるのか。

第2回では、池尻から大橋、中目黒へと歩きながら、川が刻んだ谷と、その周囲に広がる台地について考えました。

川は谷底を選んで流れる。

 

では、今度は、その川のそばに暮らした人々のことを考えてみましょう。

川があり、谷があり、坂道がある。

そこに人々が集まり、道ができ、寺社が建ち、町が形づくられていく。

今回は、中目黒から目黒不動のあたりへ。

目黒川をたどる散歩も、いよいよ人間の歴史に入っていきます。

 

 

川沿いを歩いていると、橋があります。

当たり前ですね。

橋がなければ、川を渡るのは大変です。

けれども、橋というものは、単に向こう岸へ渡るための設備ではありません。

人が集まる場所でもあります。

橋のたもとには道が集まり、人が行き交い、商いが生まれる。

川が人々を隔てる一方で、橋は人々を結びつけるのです。

目黒川にも、そんな歴史を伝える橋があります。

 

 

目黒川と目黒通りとが交差する地点。

「目黒新橋」と呼ばれる橋が架かっています。

上の写真は下流を見たところ。

橋の全景はこんな感じ。

 

 

江戸時代中期までは、江戸の市中から目黒川の西に向かう道は、ここから少し下流に下ったところにある「太鼓橋」につながる行人坂が主要路となっていました。

これは急勾配で不便な道であったため、地元の名主の菅沼権之助は新たな道を開き、その坂を新坂、道筋の目黒川に架かる橋は新橋と名付けられたました。

 

権之助は幕府により刑死しましたが、一説には幕府に無断で道を拓いたことが罪に問われたとも伝えられています。

いつしか、新坂は「権之助坂」、新橋は「目黒新橋」と呼ばれるようにりました。

 

 

JR目黒駅からゆったり下る権之助坂には、商店街が今も賑やかに頑張っています。

 

A2変奇地図

 

さて、「太鼓橋」です。

 

江戸時代は、行人坂を下ってこの橋を渡り、東側の高台の上に鎮座する目黒不動尊を祀る瀧泉寺に参詣するのがメインルートでした。

 

 

江戸時代、この橋は美しい弧を描く石橋でした。

横から見ると太鼓の胴のような形をしていたことから、その名がついたといわれています。

 

 

歌川広重の『名所江戸百景』にも、「目黒太鼓橋夕日の岡」として描かれました。

雪の降る目黒川。

その上に架かる、優美な石橋。

広重の絵を眺めていると、江戸時代の目黒が、いまの東京とはずいぶん違う風景だったことが分かります。

 

この太鼓橋は、大正9年(1920年)の豪雨で流失しました。

現在の橋は当時の姿をそのまま伝えているわけではありません。

それでも、橋の名は残り、江戸時代の風景を想像する手がかりになっています。

では、江戸の人々は、この橋を渡ってどこへ向かったのでしょう。

 

その先にあったのが、目黒不動尊です。

 


目黒不動への参詣道を考えるうえで、太鼓橋と行人坂は欠かせない場所でした。

橋を渡り、坂を越え、寺社へ向かう。

いま歩いてみると、何気ない街の風景ですが、江戸時代には、ここを多くの人々が行き交っていたのです。

 

川は、ただ水を流していたわけではありません。

人の流れもまた、この川を越えていきました。

 

太鼓橋の近くから、行人坂へ目を向けてみます。

この坂は、なかなかの急坂です。

 

 

東京の坂道は、地図の上で見るのと、足で上るのとでは大違いですね。

行人坂という名前も、ちょっと気になります。

行人とは、修行をする人々のこと。

 

江戸時代初期、この地で出羽三山のひとつ、湯殿山に関わる行者が修行を始め、次第に多くの行人が集まるようになったことが、坂の名の由来とされています。

 

 

坂の途中には大円寺があります。

そして、この場所には、江戸の大きな災害の記憶も残っています。

明和9年(1772年)、大円寺から出た火が大きく燃え広がり、江戸の町に甚大な被害をもたらしました。

いわゆる「目黒行人坂の火事」です。

 

 

火は江戸の広い範囲に延焼し、多くの人々が犠牲になりました。

江戸の歴史を振り返ると、火事は決して珍しい出来事ではありません。

木造の家々が密集し、風にあおられれば、火はたちまち広がっていく。

人々の暮らしを支えていた町は、同時に、大火の危険と隣り合わせでもありました。

 

いまの行人坂を歩いても、当時の火事の恐ろしさを実感するのは難しいでしょう。

けれども、坂の名前や寺の境内には、昔の人々が生きた時間が残っています。

坂道は、土地の高低差を示すだけではありません。

そこを歩いた人々の歴史も、静かに伝えているのです。

 

行人坂 の検索結果 - にこたろう読書室の日乗

 

さて、目黒不動尊です。

正式には瀧泉寺。

古くから信仰を集め、江戸時代には多くの参詣者が訪れる場所となりました。

 

 

いまの僕たちは、寺社を訪ねるとき、電車やバスを使い、目的地まで効率よく移動することが多いですね。

けれども、江戸時代の人々にとって、参詣は移動そのものを楽しむ機会でもありました。

 

町を出て、道を歩き、橋を渡り、坂を越える。

途中で景色を眺め、茶屋に立ち寄り、食事を楽しむ。

そして、寺社にお参りする。

 

参詣は信仰であると同時に、行楽でもあったのです。

江戸の町から少し足を延ばした目黒には、自然の風景があり、寺社があり、日常とは違う時間が流れていました。

当時の人々にとって、目黒へ出かけることは、単にお参りをするだけではなかったのでしょう。

 

町の喧騒を離れ、道中の風景を楽しみ、名所を訪ねる。

そうした楽しみもまた、人々を目黒へと向かわせたのだと思います。

 

 

目黒は、江戸の中心から見れば郊外でした。

しかし、ただ人の住まない田舎だったわけではありません。

人々が訪れる名所があり、参詣者を迎える商いがあり、周囲には日々の暮らしを営む人々がいました。

寺社が人を集め、人が集まることで門前がにぎわう。

そんな関係が、目黒の歴史のなかに見えてきます。

 

目黒不動 の検索結果 - にこたろう読書室の日乗

 

ここまで歩いてくると、ひとつのことに気づきます。

川があったからといって、それだけで町ができるわけではありません。

水があり、土地があり、そこに人が暮らす。

川を渡る橋が架かり、台地へ上る道ができる。

寺社が人々を集め、道沿いには商いが生まれる。

そして、その土地で暮らす人々の日常が積み重なっていく。

そうして、町は形づくられていきます。

目黒川の周辺も、同じだったのでしょう。

 

川は、人々の暮らしを支える自然の一部であると同時に、移動の障害にもなりました。

その川を渡るために橋が架けられ、坂道を越える道が整えられた。

道ができれば、人が動く。

人が動けば、物が運ばれ、商いが生まれ、地域と地域が結びついていく。

川は、町をつくるための条件のひとつだったのです。

 

もちろん、目黒の町をつくったのは川だけではありません。

地形があり、人の暮らしがあり、信仰があり、交通がある。

いくつもの要素が重なって、ひとつの土地の歴史ができあがります。

それでも、目黒川をたどってきた僕には、川が人々を結びつけてきたことが、あらためて興味深く思えます。

 

源流を探し、谷の形を読み、今度は、その川のそばに暮らした人々の姿を考える。

同じ川を見ているはずなのに、回を重ねるごとに、見えてくるものが変わっていきます。

 

川は、地形をつくった。

そして、人々は、その地形のなかで暮らし、道をつくり、町をつくった。

目黒川沿いを歩いていると、現代の東京の風景の向こうに、そんな長い時間の積み重なりが見えてくる気がします。

一本の川をたどることは、土地の歴史をたどることでもある。

 

さて、ここで、もうひとつ疑問が浮かびます。

そもそも、「目黒」という名前は、どこから来たのでしょう。

この話は、後編で考えてみたいと思います。