にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0630 起床 曇 【「江戸七氷川」探究】⑤ 今年の夏越の大祓は、6月30日でした。「簸川神社」と「小日向神社」を訪ねます。

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今年は6月30日が「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」でした。

半年間の穢れや災厄を祓い、残る半年の無病息災を祈る、日本古来の浄化儀礼です。


この神事で唱えられる「大祓詞」に登場するのが、例の瀬織津姫 です。

 

瀬織津姫は、罪や穢れを川から海へと流し去る「祓いの水神」とされます。
洪水や災害と共に生きてきた日本列島において、「水」は恐怖であると同時に、再生と浄化の象徴でもありました。

夏越の大祓とは、単なる厄払いではなく、災いを水に流し、世界を新しく再生し直すという、日本人の深い祈りの形なのかもしれません。

このテーマは、これまで何回も考察しましたね。

 

瀬織津姫・セオリツヒメ カテゴリーの記事一覧 - にこたろう読書室の日乗

 

夏越の大祓で見るべきポイントとして、茅の輪(境界)・水・祓詞・人形(ひとがた)・川や湧水地形などがあります。

 

大祓詞の中では、穢れは最終的に瀬織津姫 によって水へ流されます。

つまり夏越の大祓は、「半年分の災厄を、水の神話へ返す儀式」とも言えるのです。

 

 

丸の内線茗荷谷駅を降りて、北東方面に筑波大学に向かって谷を降ると、また小高い台地を登る坂があります。

この高台に「江戸七氷川」の候補地があるのです。

高低図にプロットします。

 

 

地図中の赤いマークの場所にある神社が、「簸川神社」。

この難しい漢字は「ひかわじんじゃ」と読みます。

(紫のマークは後半で触れる「小日向神社」)

 

台地の状態を、もっと引いた地図で見ておきます。

 

001

 

白山台地と小日向・小石川台地の間の谷は「小石川(千川)」が削ってできたものです。

小日向台地の南側は神田川が削った大きな谷です。

「簸川神社」と「小日向神社」はこれらの台地のふちに建っていることが分かります。

 

 

「簸川神社」

東京都文京区千石に鎮座する神社。

御祭神は素盞鳴命・大己貴命・稲田姫命の、いわゆる氷川ファミリー。

 

社伝には、次のように書かれています。

 

旧社格は村社で、小石川総社とされ小石川一帯の鎮守を担った。
紀元前より鎮座していたと伝わる古社で、現在の小石川植物園の貝塚古墳上に鎮座していたと云う。
江戸時代は「江戸七氷川」のうちの一社に数えられ、江戸の名所の一社であった。
古くは「氷川明神」と称された氷川信仰の神社で、「簸川」の字を充てるのは大変珍しく、これは大正時代に「氷川」は出雲国「簸川」に由来する説から適号として「簸川」へ改めた経緯がある。

 

孝昭天皇三年(BC473)に創建とあるのですが、白山御殿(徳松・後の五代将軍綱吉の別邸とされた御殿)の御殿坂辺あたり(現・小石川植物園内南東の水源地)の貝塚の古墳上に鎮座していたそうで、相当古くからある聖地であったことは言えるでしょう。

 

平安時代後期、源義家(八幡太郎)が奥州下向の際、当社に参籠したとも伝わりますが、前九年の役と後三年の役、どちらの戦いで当社に参籠したのかは不明。

 

Image with no description

(「氷川明神社 聖冏庵旧跡 祇園橋」『江戸名所図会』)

 

上の絵図を見ても、高台に鎮座している様子が分かります。

 

『江戸名所図会』には「上水堀の端、慈照山日輪寺といへる禅林にあり。祭神は当国一宮に同じ。勧請の始め久うして、しるべからずといへり。中古太田道潅の再興にして、小日向の鎮守なり」とあります。

『望海毎談』にある江戸七氷川のうち、「上水の鰭なる萬年寺山の社」は当社のことであろう、という説があります

 

ここに遷座したのは元禄十二年(1699)で、以後ずっと当地に鎮座しています。

突き当りの石段を登ると本殿があります。

 

 

左に稲荷社、正面が「簸川神社」本殿です。途中になにやら輪のようなものが見えます。

あれが「茅の輪(ちのわ)」というもので、この茅の輪をくぐることを「茅の輪くぐり」といいます。

 

 

茅の輪くぐりの由来については牛頭天王の関連で以前にたびたび触れました。

 

牛頭天王 の検索結果 - にこたろう読書室の日乗

 

備後国(広島県東部)を旅していたスサノオノミコト(牛頭天王)は宿を探していました。そのとき、蘇民将来(そみんしょうらい)という人物は貧しい暮らしをしながらもスサノオを手厚くもてなしました。

数年後、スサノオは再び蘇民将来のもとを訪れ、「病が流行ったら茅で輪を作り、腰につけて難を逃れなさい」と教えました。

その後、教えを守った蘇民将来は難を逃れることができたそうです。

 

昔は茅の輪を腰につけて無病息災を願いましたが、江戸時代初期ごろに、現在のように大きな輪をくぐるようになったといいます。

 

左に1回、右に1回、最後に左に1回くぐります。

「結界」を通り抜ける儀式です。

 

輪に茅が使われる理由には、茅に利尿作用があり、生薬として用いられ、夏の体調回復に使われていたから、あるいは茅は魔除けの力を持つと考えられていたから、などの説があります。

 

茅の輪くぐりとは何か|意味・由来・くぐり方を神社参拝前にやさしく解説 | 日本の神社・神道・伝統文化|かみのみち ~ 神の道 ~

 

本殿脇の稲荷社。

可愛い招き猫が奉納されていました。

 

 

荘厳だったと伝わる旧社殿は東京大空襲で焼失。

昭和三十三年(1958)に現在の社殿が再建されました。

 

 

神社の脇の「氷川坂」。かなり急な坂道です。

 

 

ここから、もと来た茗荷谷駅へ戻ります。

 

そして南側の小日向台地を越えると江戸川橋へ降りるのですが、この台地の上に「小日向神社」があります。

(上記高低図の紫のマーク地点)

 

 

この脇の入口から階段を降りると境内です。

 

 

「小日向神社」

 

 

祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の2神。

 

明治2年(1869)小日向水道町(小日向一丁目)の氷川神社と音羽九丁目裏(音羽一丁目)の八幡神社を合祀した神社。氷川神社は天慶3年(940)平貞盛がこの地を平定した奉賽として創建したと伝えられる。

 

(氷川明神社・金剛寺・本法寺『江戸名所図会』)

 

 

 

こちらには「茅の輪」は無く、七夕飾りがありました。

 

目白通りから訪れるには、この服部坂を登ります。

 

 

服部坂の名は、坂上に服部権太夫の屋敷があったことに因み、小日向神社の境内がその屋敷跡であるということです。

 

 

坂を下りきると神田川を古川橋で渡ります。

江戸川橋から3つ下流の橋です。

 

今回の2社の訪問で、「江戸七氷川」を7カ所コンプリートしたことになります。

東京メトロ有楽町線「江戸川橋駅」から帰宅しましょう。

 

神社名 所在地 特徴・由緒
赤坂氷川神社 港区赤坂 江戸七氷川の筆頭。徳川吉宗が建立した社殿が現存。幕府の祈願所。
元氷川神社 港区赤坂 徳盛寺境内に鎮座、明治16年赤坂氷川神社に合祀。
麻布氷川神社 港区元麻布 徳川家光の命で現在地へ。セーラームーンの聖地としても有名。
渋谷氷川神社 渋谷区東 渋谷区最古の神社。広大な森を持ち、江戸郊外の景勝地だった。
簸川神社 文京区千石 巣鴨の入口、小石川の植物園近く。のち高台に遷座。
小日向神社 文京区小日向 上水の鰭なる萬年地山の社。明治2年田中神社を合祀して改称。諸説あり。
白金氷川神社 港区白金 羽根田村にて新堀近きところの社。新堀川を渋谷川(古川)とすれば白金が該当。諸説あり。

 

0630 起床 曇 銭湯に貼ってあった映画のポスターのこと。

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昭和の映画のことを考えていたら、昔、銭湯の正面玄関や、男湯の脱衣場によく貼ってあったポスターのことを思い出しました。

 

僕が生まれた時には、自宅にはお風呂が無くて、近所の銭湯に通ってました。

あれは何歳ころまでだったかな。

はっきり思い出せない。

幼稚園くらいかな。

目黒通りで東京オリンピックのマラソンの応援をしたころかな。

おそらく1960年代の初めのころでしょう。

 

当時、昭和30年代~40年代初頭、どこの銭湯にも脱衣場に今かかっている映画のポスターが貼ってあったのです。

 

 

座頭市、ゴジラとキングギドラ、東映の仁侠映画。

加山雄三の若大将シリーズや、『風と共に去りぬ』、なんかの洋画もあったのかな。

 

甚風呂の銭湯空間の脱衣所

 

和歌山県湯浅町にある、銭湯を再生した歴史資料館「甚風呂【銭湯跡歴史資料館】」。

面白そうなところですね。ちょっと遠いけど。

 

甚風呂 - 銭湯跡歴史資料館

 

最近、銭湯に行かないけど、あのポスターは今でもあるのかな。

けっこう大きくて、縁が五線譜のデザインのやつとか。

あれは東宝だったか。

なつかしいなあ。

 

 

街角の板塀にも貼られていた映画ポスター。

当然インターネットなど無く情報も少ないですから、映画ポスターが情報入手のひとつの手段でした。

 

 

昔の映画の手描きポスター、良い雰囲気でしたね。

映画館の壁の大きな「映画看板」も手描きでした。

 

(初代「君の名は」、さすがに古いかな)

 

おとなになってからは、思い出したように数回、ご近所の銭湯に行ったことはあります。

今住んでるところの目の前が銭湯だった約20年前にも、行ったなあ。

ポスター、あったかな。

定番のコーヒー牛乳は売ってた。

 

0600 起床 気分並 晴 僕は20年以上、この窓から朝の空を見上げてきた - にこたろう読書室の日乗

 

(イメージ)

 

 

これは現役の名古屋にある銭湯の脱衣場の写真ですが、映画『湯道』のポスターが貼ってある。

 

昔、男湯の脱衣場のやつは、怪獣映画とかと並んでポルノ映画(成人映画のことね、これも古い言い方だ)も普通に貼ってあったんですよね。

 

おおらかな時代だったなあ。

今は子供のスマホや学校の学習用端末に、不適切広告が表示される問題があります。

0630 起床 雨 【ある昭和の7つの映像】② 『少年時代』は 失われた昭和の原風景への憧憬。振り返れば消えてしまった風景、誰もが一度は持っていた少年の日々。

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昭和という時代を一本の川にたとえるなら、『ゴジラ』が激流の始まりならば、『少年時代』はその源流でしょう。

そこには、後に大きく変わっていく日本がまだ眠っているのです。

僕の父親たちの世代かな。

 

あの、井上陽水の主題歌が、かなしく、うつくしい。

この曲はエンディングで印象的に使われます。

 

 

『少年時代』 

1人の漫画家・藤子不二雄Ⓐとして独立した安孫子素雄が企画・製作を務め、映画化された。

監督は篠田正浩。1989年7月11日に制作発表が行われ、7月22日に朝日町立大家庄小学校で富山県内ロケが開始された。

 

原作は、柏原兵三の小説『長い道』に感銘を受けた藤子不二雄Ⓐが、自身の疎開体験やオリジナルキャラクターも加え新たに漫画化した作品。

漫画版の舞台は、藤子不二雄Ⓐが戦時中に疎開した富山県下新川郡朝日町をモデルにしている。

 

 

太平洋戦争末期、東京から疎開してきた少年・風間進一と、地元の子供達の権力者・進藤武との不思議な友情と心の葛藤が描かれている。戦時中の疎開という地味な舞台設定のためか、『少年マガジン』連載当初は読者からの反響がまったく無く、作者自身も戸惑っていた。しかし連載が終了してから読者からの手紙が殺到した。

 

これがさらに映画化されました。

 

あらすじはこんな感じ。

 

太平洋戦争も終わりが近づいた昭和19年(1944年)。小学5年生になる風間進二(藤田哲也)は実家のある東京を離れ、富山県のある町へ縁故疎開することになる。

両親(細川俊夫、岩下志麻)から愛情を注がれて育った進二にとっては、単身で田舎の生活に放り込まれることはまさにリアルな戦争の始まりだった。

 

 

これが疎開先の集落から小学校へ登校するための「長い道」。

ロケ地ではアスファルトをはがして土を敷き、草を植え、木の電信柱をたくさん立てたそうです。

ロケで使用した古い木造校舎は、もうすでに取り壊されて残っていません。

 

 

映画の通学路として出てきた道が入善町横山小学校があった前の道で、横山小学校はすでになくなっています。

周り一面の水田の風景は当時と変わらず映画のワンシーンを思い出させてくれます。

 

 

富山の農村で暮らす伯父夫婦(河原崎長一郎、三田和代)の家から小学校に通い出した進二は、地元の子どもたちの格好の標的となる。

東京育ちの進二は言葉も仕草も地元の子どもたちとは違ったからだ。都市生活者と地方在住者との間には、今とは比べ物にならないほどの大きな断絶があった。

 

 

クラスの級長を務めるタケシこと大原武(堀岡裕二)が、この村一帯のガキ大将だった。体格のいいタケシは家の仕事を手伝い、幼い弟の世話もしていた。礼儀正しく、勉強もできるので、大人たちからの評判はよかった。だが、自分に従わないクラスメイトには容赦なく鉄拳を見舞う。

転校生の進二は学校でタケシから奴隷的に服従させられる一方、学校を離れると親友として大切に扱われることになる。

 

子ども社会を束ねる暴君としての顔と、進二が語る『巌窟王』の物語に耳を澄ませる知的好奇心旺盛なインテリとしての顔をタケシは併せ持っていた。

タケシの持つ二面性に、大いに戸惑う進二だった。

 

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物語の舞台は戦時中の地方都市です。

主人公の少年は都会から移り住み、その土地の子どもたちとの関係のなかで成長していきます。

戦争の時代を扱っていますが、この作品の中心にあるのは戦闘や政治ではありません。

描かれるのは子どもたちの日常です。

学校での人間関係。

友情と対立。

季節の移ろい。

大人たちには理解できない子どもだけの世界。

 

 

戦争は背景として存在していますが、画面の中心にあるのは、あくまで少年たちが生きる時間です。

 

だからこの映画を観ていると、歴史映画を観ているというより、失われた記憶の中を歩いているような気持ちになります。

 

山や川の風景。
夏の光。
土の匂い。
夕暮れの空。

 

(4点ともイメージ)

 

そこに映し出されるのは、戦時中という特殊な時代でありながら、同時に多くの日本人が共有していた「昔の子ども時代」の姿でもあります。

 

『少年時代』は、この駅からはじまり、この駅で終わります。

北陸本線泊駅。(現在のあいの風とやま鉄道線)

 

 

映画では、「風泊駅」として、登場しています。

 

上野を発ち、疎開する人たちを乗せて入線する機関車は「C11227」ですね。

 

1942年9月に製造されたこの機関車(C11227)は、保存状態の良い戦前型機関車に分類されます。C10型を改良したこの洗練されたタンクシステム機関車は、時速85kmで走行できます。

戦後、227号機は1975年11月に大井川鉄道に加わりました。1976年7月9日に蒸気機関車として初運行されて以来、大井川鉄道の代表として活躍しています。

 

1989年というこの映画の撮影時期を考えると、CG処理ということはないでしょうから、大井川鉄道沿線のどこかで実車が撮影されたカットなのでしょう。

 

 

1991年4月28日の「 C11227」・「C11312」が大井川鉄道・駿河徳山~田野口を通過する途中の写真です。

 

 

別のシーンでは「C571」という車両番号の機関車が映っています。

これもまた動体保存されている「C571」は、1990~91年2月、七尾線金沢~穴水間で「冬のときめき号」として企画運行されています。

これは映画の撮影場所に近いので、収録しやすかったのでしょう。

 

 

そして、戦争が終わり、疎開していた進二たちはまたこの駅から東京へ帰ります。

 

「さよなら、といった時、ぼくたちの少年時代は終わった」

 


 

昭和を語るとき、私たちはしばしば復興や高度経済成長といった「変化」に目を向けます。

しかし『少年時代』が見つめているのは、その変化の前にあった世界です。

まだ日本が大きく姿を変える前の時間。

後から振り返れば消えてしまった風景。

そして何より、誰もが一度は持っていた少年の日々。

 

『少年時代』は戦争を描いた映画である以上に、「失われた時間」を描いた映画なのかもしれません。

「戦争映画」というよりも、「昭和の記憶の映画」・「少年時代そのものへの鎮魂歌」。

 

原作者の藤子不二雄(A)だけでなく、1934年(昭和9年)浅草生まれの山田太一も戦時中に湯河原への疎開を経験していたそうです。

進二と同学年だった山田太一は、インタビューの中でこう語っています。

 

「言葉も生活も東京とは違う。そこへ入るためには、東京を捨てなきゃならないんです。東京もんですという顔をしてたら、いじめられますから、いち早く捨てたぞという態度をとろうとした。でも、心の中では自分は東京もんだというアイデンティティがあって、敗戦後、東京に帰る人たちはそれを裏切るわけですね。田舎もんのふりをしていたのが、すっともとの顔に戻るわけですよ。受け入れた側から見ると、一種の裏切りというか淋しさがあった。そして東京に帰る人にも後ろめたさみたいなものがあったんです」(『東京人』1998年3月号)

 

『ゴジラ』が「昭和という時代の始まりにあった社会の記憶」を描く映画だとすれば、『少年時代』は「昭和を生きた個人の記憶」を描く映画です。

 

『ゴジラ』=歴史としての昭和
『少年時代』=思い出としての昭和

とも言えるでしょう。

「昭和」とは、僕たちにとって「歴史」と「思い出」の境界線にある時代なのです。

 

そしてエンディングの陽水の『少年時代』。

 

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この曲は戦争を歌っているわけでも、昭和を歌っているわけでもありません。

それなのに、「夏が過ぎ 風あざみ」という冒頭を聴くだけで、多くの人が「失われた時間」を思い出します。(風薊というのは陽水の造語)

 

映画の内容とも重なりますが、陽水が見つめているのは「戦争」そのものではなく、もう二度と戻れない少年の日々なのだと思います。

 

『ゴジラ』が昭和の出発点を描いた映画なら、『少年時代』は昭和を振り返るために作られた映画。

「昭和という時間の流れ」が一本の川のようにつながって見えてくる。

『少年時代』はその川の源流近くにある、静かな支流のような作品ですね。

0530 起床 曇 【ある昭和の7つの映像】① 『ゴジラ』(1959)は「戦後日本そのもの」を描いた、深夜の能舞台を観るような怪獣映画。

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「昭和100年」を記念して、「昭和」という時代と僕自身の人生を重ね合わせるような、映画作品を観なおしてみたいと思います。

 

モノクロからカラーへ、不便から便利へ、戦後から豊かさへ、過去から未来へ、

という「変化の時代としての昭和」を感じさせる映画作品。

「昭和という時間の流れ」を感じさせる作品。

昭和とは、僕にとって「歴史」と「思い出」の境界線にある時代。

 

じつはあまり映画に詳しくないから、上手くいくかどうか。

候補はたくさんあるでしょうから、とりあえず、軽い気持ちで七つくらい思いつくままに挙げてみよう。

そうそう、一応日本映画を対象にして、洋画は番外編みたいにしようかな。

 

題して、【ある昭和の7つの映像】。

 

その①はまずこれ、『ゴジラ』(1954)。

 

 

『ゴジラ』(英題:GodzillaまたはGODZILLA, KING OF THE MONSTERS)は、1954年(昭和29年)11月3日に公開された日本映画です。

 

僕が生まれる5年前になるのでリアルタイムで劇場では観ていないのですが、どこかで観た印象は鮮明です。テレビだったのかな。

 

調べましたら、この映画の地上波テレビ初放映は1962年(昭和37年) です。

具体的には、11月4日に日本テレビ系で放送されました。

公開から8年後ですね。

当時はまだテレビが急速に普及しはじめていた時代で、この放送によって映画館で観ていない子どもたちにもゴジラが一気に広まりました。

僕は3歳だ。覚えてはいないよなあ、普通。

 

 

古いアルバムにこんな写真が残っていました。昭和35年、1歳の僕が床の間のテレビといっしょに写ってる。これで「ゴジラ」の放映を観たのかも。

 

ちなみに視聴率も非常に高く、これが後の「テレビでゴジラを観る」という文化の出発点になったと言われています。

1962年は、ちょうど『キングコング対ゴジラ』が公開された年でもあります。

つまり、この年の日本では、劇場では『キングコング対ゴジラ』が大ヒットし、テレビでは初代『ゴジラ』が初めて全国放送される、という出来事が重なりました。

そのため、この年は「ゴジラが映画館だけのスターから、テレビ時代の国民的怪獣へと飛躍した年」と位置づけることもできます。

実際、この頃からゴジラは子どもたちの間で圧倒的な人気を獲得し、以後のシリーズ展開の土台が築かれていきました。

 

製作・配給は東宝。監督は本多猪四郎、原作は香山滋、脚本は村田武雄と本多猪四郎、特殊技術は円谷英二、音楽は伊福部昭。

出演者は宝田明、河内桃子、平田昭彦ら。モノクロ、スタンダード。

上映時間は97分。

 

巨大怪獣ゴジラが登場するゴジラシリーズ第1作で、日本の怪獣映画の元祖、などと言われますが、この時点では「シリーズ化」の概念はなかったと思います。

その後の展開は、ご存知の通り。

 

昭和という時代を映画でたどるなら、やはり最初に挙げるべきはこの初代『ゴジラ』でしょう。

 

冒頭のあの有名になった伊福部昭の「テーマ音楽」。

今回まじまじと聴いてみたけど、「ハルサイ(春祭)」の変拍子みたいで、さすがに斬新ですね。

 

 

「ゴジラの作曲家」として世に広く知られた伊福部ですが、「純音楽の作品を聴いてほしい」と現代音楽での作曲を最晩年まで書き続けた人。

 

1914年5月31日生まれ。
伊福部家は大己貴命(オオナムチ=大国主)を宗祖する因幡の古代豪族であり、武内宿禰(たけのうちのすくね)を祭る、因幡國一の宮・宇倍神社の神官を明治維新に至るまで代々務めてきた。伊福部家は昭の代で67代続く家系である、という出自もただものではない感満載。

釧路に生まれ、父の仕事で十勝地方の音更村へ移住。アイヌの人々と交流し、その暮らしに根付く歌や踊りに衝撃を受けたのが音楽との出会い。

その後旧制中学時代にストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴き、「自らの文化に根付いたものを書きたい」と独学で作曲を始めたそうです。

古今最強の楽器法指南書とも称される『完本・管絃楽法』の著書も。

 

管絃楽法

 

「民族の特殊性というものを通過して、共通の人間性に到達しなければならない。そうなったものだけが芸術として残っている」というのが僕の信念なんです、と語っています。

「ゴジラ」と「春祭」の御縁はここからですね。

 

面白いのは、『春の祭典』が「大地の神への生贄の儀式」を描いた作品であるのに対し、『ゴジラ』もまたどこか神話的な存在として怪獣を描いていることです。

第一作のゴジラは後のヒーロー怪獣ではなく、「海から現れた荒ぶる神」に近い。

だからあのテーマ曲は単なる怪獣登場音楽ではなく、災厄そのものが歩いてくる音のように聞こえます。

実際、ゴジラの足音の「ドシン、ドシン」というリズムと、テーマ曲の執拗な重低音は一体化していて、まるで巨大な神が大地を踏み鳴らしているようです。

 

昭和という時代の出発点に置かれた映画の音楽として考えると、あれは復興のファンファーレではなく、まず「人類は自然や歴史の前では無力である」という宣言から始まっているのかもしれません。

 

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この映画をあらためて観ると、意外なほど重苦しい作品であることに驚かされます。

子供向けの怪獣映画というより、むしろ戦争の記憶と核兵器への恐怖を描いた社会派ドラマです。

モノクロームの墨絵のような映像も、シュールで静謐。

深夜の能舞台を観るようです。

 

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ゴジラは単なる怪獣ではありません。

広島・長崎への原爆投下、そして公開の前年に起きた第五福竜丸事件によって日本人が抱えた不安そのものが、巨大な姿となって東京へ上陸した存在でした。

 

映画の中でゴジラが東京を破壊する場面は、戦争で焼け野原になった都市の記憶と重なります。

夜の炎。
崩れ落ちる建物。
避難する人々。

それは怪獣災害であると同時に、戦争体験の再現でもありました。

 

 

昭和29年といえば、終戦からまだ9年しか経っていません。

現在の感覚でいえば、2011年の東日本大震災から9年後にあたるくらいの近さです。

戦争はまだ「歴史」ではなく、多くの人にとって生々しい「記憶」でした。

だからこそ当時の観客は、ゴジラを単なる空想の怪物としてではなく、自分たちが経験した恐怖の象徴として見ていたのでしょう。

お客さんのほとんどの人に、空襲で逃げ回った自分自身の経験があったのです。

 

(イメージ)

 

しかし、この作品が重要なのは恐怖だけを描いているからではありません。

戦後の日本は、焼け跡から立ち上がろうとしていました。

その一方で、科学技術への期待と不安も抱えていました。

劇中で科学者・芹沢博士が開発した「オキシジェン・デストロイヤー」は、人類を救う技術であると同時に、新たな破滅を招く可能性を秘めています。

 

これは戦後日本が直面した問いそのものです。

科学は人を幸せにするのか。

それとも新たな災厄を生むのか。

 

この問いは、原子力や高度経済成長を経ていく昭和という時代全体に投げかけられたテーマでもありました。

後年のゴジラ映画が「怪獣と人類の戦い」を描いたのに対し、第一作『ゴジラ』は「戦後日本そのもの」を描いた作品だったと言えます。

 

感無量の面持ちを浮かべた宝田明

 

2018年2月4日、東京・有楽町のTOHOシネマズ日劇で開催された「さよなら日劇ラストショウ」で、出演作「ゴジラ」の上映に立ち合った宝田明は「モノクロの映画には訴える力がある」と改めて感じたといいます。

「かつてシカゴの美術館でレンブラントの絵を前にした時、立ちすくんで金縛りにあったような感覚になった。黒の白との対比が実に見事。『ゴジラ』の画とオーバーラップします」と語り、本作の初号を見た際の思い出を明かしています。

「かび臭い映写室で見て、ひとり泣きました。ゴジラがあまりにも可哀相で。彼自身も被ばく者だと考えると、オキシジェン・デストロイヤーで海の藻屑とさせてしまうのは、人間の“業”とでも言いましょうか。まるで子どものように泣きました」と振り返っています。

 

「昭和」とは何だったのか。

 

その問いに答える映画をまず一本選ぶなら、この『ゴジラ』を挙げたいと思いました。

そこには戦争の傷跡があり、復興への願いがあり、そして未来への希望と不安が同時に映し出されているからです。

昭和という長い時代の出発点には、黒い雨の記憶を背負いながら海から現れた、この巨大な怪獣が立っているのです。

 

 

 

このあと「ゴジラシリーズ」は、今年の秋に予定されている『ゴジラ-0.0』も含めると、国産の実写作品としては31作目となりますね。

旧帝国海軍の残存艦艇の修復・再登板が何になるのかも興味のあるところです。

あと、「ボンドガール」みたいな、マドンナの起用も愉しみです。(たしかシリーズ中、1作だけマドンナが登場しなかったのではなかったかな)

 

ちなみに『ゴジラ』(1954)では河内桃子さんですね。

 

 

彼女は1995年12月9日公開のゴジラシリーズ第22作目にして、VSシリーズ最終作となる『ゴジラVSデストロイア』でも、幾星霜を経た同じ役で再登板しています。

 

 

約40年ぶりの「恵美子」登場は最大のファンサービスでしょう。
それを意識してか出番は本当に中盤のみ。印象には残りますが、意外と少ないのです。

 

「ゴジラの最初と最期」に落とし前をつけた感じで、感慨が深いものがありますね。

0630 起床 曇 「大正100年」って企画、あったのかな? 「大正ロマン」を象徴するイメージとは?

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サッカーW杯、ブラジル戦、残念!

しかし、日本よく頑張った。

まるで決勝戦のような雰囲気。

本田圭佑の「解説」も良かった。

 

 

突然ですが、「大正100年」という企画はあったのかな?

前回の「昭和100年」話題からの繋がりでちょっと気になったのです。

 

0630 起床 曇 今年2026年は「昭和の満100年」の記念の年でした。 - にこたろう読書室の日乗

 

大正元年である1912年を1年目として数える場合、該当する年は2011年になります。
この年は、日本にとって忘れることのできない年です。

3月11日に発生した東日本大震災、津波、福島第一原子力発電所事故は、日本社会の防災、エネルギー、行政、地域社会、情報流通のあり方を根底から問い直す出来事となりました。

世界では、アラブの春、リビア内戦、シリア内戦の始まり、オサマ・ビンラディン殺害など、政治・経済・社会の各領域で大きな変化が起きていました。

 

津波の被害を受けた石巻港

 

「大正100年」をお祝いするような気分ではなかったんですね。

あの時は。

 

それでも、大正文化・大正ロマン・民藝運動・分離派建築会など、個別テーマで「大正100年」を振り返る展覧会や企画が各地で行われていたそうです。

 

 

結果的に、「大正100年」企画や話題が日本社会全体としてあまり振るわなかったのはなぜでしょうか。

 

① 大正は短すぎた

 

大正時代は1912年から1926年までのわずか15年。

一方、昭和は1926年から1989年まで63年続きました。

 

国民の記憶としても、戦争・復興・東京オリンピック・高度経済成長・万博・新幹線・
テレビなど、「昭和」という一つの時代像が形成されています。

大正は文化史的には重要ですが、「国民共通の記憶」としては昭和ほどではありません。

 

② 大正を知る人がほとんどいなかった

 

これも大きいと思います。

2011年に大正100年をやるとすると、大正末期生まれでも95歳前後。

実質的に「大正を体験した世代」がほぼいません。

しかし昭和100年の2026年には、昭和30年代生まれが70歳前後、昭和40年代生まれが50~60代。

国民の多数が「自分の時代」として昭和を記憶しています。

だから昭和100年は歴史イベントであると同時に、「個人の思い出を振り返るイベント」でもあるのです。

 

③ 実は「大正100年」はどこから数えるかが曖昧

 

面白いことに、1912年(大正元年)から100年 → 2012年
大正時代終了(1926年)から100年 → 2026年
大正文化最盛期(1920年前後)から100年 → 2020年前後

と、節目が分散しています。

 

「昭和100年」は「1926年→2026年」と非常に分かりやすい。

これは起案・企画が出しやすいのです。

「大正100年」はほとんど振るわなかった。

それは大正が重要ではなかったからではなく、すでに「歴史」になっていたからかもしれない。

しかし昭和100年は違う。

昭和は「歴史」であると同時に、誰かの「記憶」でもある。

だから私たちは、昭和を振り返るとき、歴史を学んでいるのではなく、自分自身の人生を振り返っているのです。

 

実際、「昭和100年」が成立した理由は、「昭和が長かったから」だけではなく、まだ昭和が「モノクロームから初期の天然色カラーへの移り変わりのグラデーションの世界」として、生きた記憶として残っている最後の節目だからではないでしょうか。

 

 

大正時代の文化を語るうえで欠かせない言葉が、「大正ロマン」です。

大正ロマンとは、和風と洋風が溶け合った、どこか華やかで、少し懐かしく、そして幻想的な雰囲気を指す言葉です。

着物に洋風の帽子やブーツを合わせたり、和風建築にステンドグラスや洋館風の意匠を取り入れたりするような、独特の美意識にその特徴を見ることができます。

 

ただし、これは当時の人々が日常的に使っていた言葉というよりも、後の時代になって大正文化を振り返る際に用いられるようになった呼称です。

大正ロマンを象徴するイメージとしては、次のようなものが挙げられるでしょう。

 

・着物に袴を合わせた女学生
・洋館やカフェの並ぶ街並み
・竹久夢二の美人画
・レトロな看板やポスター
・西洋風の家具や照明
・和洋折衷のファッション
・文学を愛する少女やモダンな青年

 

 

大正期の日本は、明治以来の近代化の成果が社会のさまざまな場面に現れ始めた時代でした。都市文化が発展し、新しい思想や芸術、生活様式が次々と流入し、人々は「新しい時代」の到来を強く意識していました。

そうした時代の空気を背景として生まれたのが、大正文化の華やぎであり、大正ロマンと呼ばれる独特の感性だったのでしょう。

 

 

しかし私たちは、その後に待ち受ける戦争と激動の時代を知っています。

だからこそ、この時期の文化や文明が放った一瞬の輝きには、単なる懐古趣味では片付けられない複雑な感慨を覚えます。

繁栄への期待と不安、開放感と時代の影。

その両方を抱えていたところに、大正ロマンの魅力があるのかもしれません。

0630 起床 曇 「進化のキー(key enabling technology)」の発明がじつは文明の近代化の核心だったという話。

血圧値 123/77/71 酸素飽和度 98% 体温 36.6℃ 体重 67.3キロ 運勢 The Hanged Man :R

 

人類の知的進化は、あるきっかけがあると、急速に進むことがあります。

それは一見、目立たない「小さな発見・発明」です。

 

世界史の中の技術史をよく見ると、「巨大発明」が突然現れるのではなく、それ単体では地味だが、他の技術を接続・拡張・量産可能にする小発明が「進化のキー(key enabling technology)」として働いています。

 

これは技術史ではしばしば「基盤技術」「汎用技術」「ボトルネック解消技術」などと呼ばれます。

 

以下、とくに重要な「進化のキー」について、チャッピィにまとめてもらいます。

ちょっと気がつかないアイテムも挙げられていて、興味深いリストになりました。

 


1. ねじ・ボルト・ナット

https://images.openai.com/static-rsc-4/a5oFtqsfNbWTl_dEqe4E3w52FQd-79eIYeLXKNUJcds-6rl--IN7qjAVXvfjBLjZbCNyJI8nVhU9GZAF2sra6N-RK5pMbQidSthiy5rk_2gX1LFjJltfyxlmCt7q1dXm9nknyYAwrDUTnBIMxCxtCGBfRZQB1Ywu5faBZPkK78EYIMlPtZdbpZ3y2g9ZZGf9?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/jgbN7PJHXGH_LYJ42PHGIV49d3lF44KIzRZVE_aL0R6XlA7o_BgVkd3ep1LNu-5m5vRvgZyaLRTdnPwAxu3ev8HCzlAX5d0WIPH_dFclj6qyVLxA-h5Gy5f1TU3qPZw7jBaEfbEZ02kpVl0Kpz-IKXfXM1VpwvU41unwyYZ3O_IjVAF9F8hQeTZIGBsnPZxT?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/POx7rx0q9wkVZqI6M5ldrH3hjuSTctfNDYs8lCChJq4xqjZ4XGtnTzyzlzh6riC1fXnkf5w8VwtyRn509yRiguTBGNr8ycZRjvS-41Aziao9SzKNLkk-ED-wXbiTnN4Yul7XRQbJxKHjn3bVp4nwyaMQnUqBra6Mp6v3OjiLIwc0ibcLt1fYxfVKWPU064Gs?purpose=fullsize
 

なぜ重要か

鉄を「構造物」に変えた。

鉄そのものは古代からありました。
しかし巨大建築・機械・鉄道を作るには、

  • 分解できる
  • 修理できる
  • 同規格で交換できる
  • 精密に固定できる

必要がありました。

ボルト・ナット・ねじ山規格によって、

  • 蒸気機関
  • 工作機械
  • 鉄橋
  • 鉄道
  • 軍艦
  • 高層建築

が一気につながります。

本質

「鉄を“部品”に変えた」


2. 工作機械(旋盤・フライス盤)

https://images.openai.com/static-rsc-4/0028297Cjlr9HEr27ENnWL_Txddp0nm6AnyDU2yHwLLSAaetosZj7yeaX8A_cfdWeZNvlesv5hV6La1rfSGoqnqBD2I-GXCbn3Gkh50VjPlpCqp5O_ezaguAMdH2NZ5o5_QeCOjZN4ebx46IUiJcI2jQUOC0jKreePQ7gt5SVJfJOTJo0GiUxoEG3uFqg0nK?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/SiwqMroxbFtO5uiSGMMrDKt9oNaBPQtiuSMJf3SCIPQ87gWeFswKJd3LOmR-TWsCCBWp-p5qOen0SUjyZEokjL8eIhDRXETKWFwVKKHjzyfoBuG-QXOo4euPpK0E6PIQFyz_mlJT5moTVysZV_tOVH3TJkftNroHrmbWJEQy13MSndrhqePQ9lAckDSngBZ1?purpose=fullsize
 

なぜ重要か

“精密な部品を大量生産”できるようにした。

蒸気機関も銃も時計も、実は「精度」が必要です。

しかし人力加工では、

  • 毎回サイズが違う
  • 部品交換できない
  • 大量生産できない

という限界があった。

工作機械は、「機械が機械を作る」世界を作りました。

本質

「精度の自己増殖」


3. 標準規格(規格化)

  • ネジ規格
  • レール幅
  • 電圧
  • コンテナサイズ
  • 紙サイズ(A4)

なぜ重要か

社会全体を「接続可能」にした。

例えば鉄道。

各社が勝手な軌間を使うと、列車が乗り入れできません。

規格化は、個別技術を「ネットワーク化」する。

本質

「孤立技術を文明へ変える」


4. ベアリング(軸受)

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https://images.openai.com/static-rsc-4/CWyjut_0jLMWj4uX5KIVyqZ092UD7eSVYYduiXOcMqbj7Gk-MxE3hTv_Qh4rgCNpiHgdzr_ZWj8Qqkf6ObNd3ZbwcXeUXxBYQlQNo4GB_ZnsTZr94NmZSm8y8OtD3O9tcs78XVA3H1ZpSiY3y8jmIrq4gh0vA8bj7wMw5lMTFZfkpbpnEyhONy113hByDlsT?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/BUuOkf5SU5oyCtw3bJkTAg5d0441TN1k9ZlxVsKpvx-b0UpkLJOxek_ismwe-ekyFmXVkk7LytNEr2KDh8lejsBi5LORBoFqUEJMSsl40ooUOxOua21TGVRbR0-GzsUgUAmKlN3jTcIB_sgMJ_HeDEECfAWkR0tWZ0SWSSbCICd0i1WAmB7Vz2UbnJ1WSiJ9?purpose=fullsize
 

なぜ重要か

回転摩擦を劇的に減らした。

これがないと、

  • 自動車
  • タービン
  • 発電機
  • 飛行機
  • HDD

など高速回転機械が成立しません。

自転車文明すら成立しにくい。

本質

「回転を文明化した」


5. 時計(精密時間)

https://images.openai.com/static-rsc-4/EvRoYrSQQ4Fqo_iQyHlCaSK8F5_jEBL8mWVQo-5o6mEq4-QywlJf4F1YB3ssDUQvug6jFqCu1NK1adJDxYzwP_IwtLLk-LB0pNOay8WvqfS5d8uZ-62USIO72nixPzznWrc-hvLBQ_FqXelbSMSHROxAV-3b1KKWkIu-eSv2FyCc98HyoveE_CvbLUHGoWab?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/pSPDoGtHoeXmY49jN6HEst8QWK-555tY58DVWKTp9SFQpKXos1ZrPbnFyvjEkQN12KcdolVDYlkK4_F50uh7hUkyjWJtQtrRdvTtCxs1oNxw0QmfSwgkpMZv-VWtRh1emK0EpW10WyTasF7daYHXlYzce449AIw8YCgYhhFeBgVhPbp_bmq_xIwgDAc25NYp?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/5aft2wc9nflbMunQCrdrb8pSwUOh-UUEPo7k8ZCDDqX2xFccEXxMwwc-8E68U4iebAsRdK_CIHxoh_XPkYiYak_f26Jy-3EequZkg6tQPGkqCXyPF1gnyl98S8XJAdDkpDYuLe4Ogu8z9KR5IEBWHQNYcrvbHz_iIpAmtktg4tESli5DSANDg1UNBychDVOa?purpose=fullsize
 

なぜ重要か

時間を「共有規格」にした。

時計以前、時間は地域ごとに曖昧でした。

精密時計は、

  • 航海測位
  • 鉄道ダイヤ
  • 工場労働
  • 科学実験
  • 通信同期

を可能にします。

本質

「時間の工業化」


6. 活版印刷

https://images.openai.com/static-rsc-4/B6gERZHQrJPFBDwdRf5QOVFNLzKIC_wPMQBQoWnD0uf5j19f4Zh0QKzwrfZl2mCZKatMajpQelN_2ouI7aZID_OKSDTLOHT3XgfVRquABDwjmZvYD4_E-3VzeelkzXSWL80EM_C9rrSnEUg_g2rZCGvK6Hyfz907u3y5t7Osjqlzui8QPRHuGWB3LaxHheFb?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/sAKhf4ib8sRwnSeujWaEEERuMBTjfMhZXUIvXKDQd-6wHAe8mZOKe96UabHfjljktUt3vnkARg8IFE_ePIktRwHpp79Qfa_xxIABGyzhxLcBY6HivBAQGeAtmULaDxqCUGZcY1SuzJCh6D7COmBqDJwSE1N0uuItuYv8GHtWtiO5ctJcq_-8KsI_v3Uudw2c?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/5AjPdDAGYFUm0zevqKnnfKTd7vXGzblHdTTFXXBWwckYsGTRmV7zxvhhuDQUiHMC-ESIoRvG8iQ_bohZpVLYPxhwKN-_gdcFYziXhw2VBtUEMV37G-YBFMG7vgL8_jhzFYE9Miu31Ux3-Q1t0pdEYovNluFjvh8LlXF0B4SWC4t3uLWJLjTIjPq4lHdESKLt?purpose=fullsize
 

なぜ重要か

知識を“複製可能”にした。

これ以前、知識は手書きで伝播が遅い。

活版印刷で、

  • 宗教改革
  • 科学革命
  • 教科書
  • 新聞
  • 国民国家

が加速します。

本質

「知識の量産」


7. 紙

なぜ重要か

情報のコストを激減させた。

石板や羊皮紙は高価。

紙によって、

  • 行政
  • 会計
  • 契約
  • 教育
  • 科学記録

が爆発的に増えます。

本質

「文明の記憶媒体」


8. 数字のゼロ

なぜ重要か

計算を“機械化可能”にした。

ローマ数字では高度計算が困難。

0と位取り記数法が、

  • 代数学
  • 会計
  • 天文学
  • コンピュータ

へつながります。

本質

「抽象計算のエンジン」


9. 計算尺 → 対数

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https://images.openai.com/static-rsc-4/hY6IxPq3lef2T4_wf9F5wYx8rAGBkQGrGsolS0Eboz0q7tyekbicMw03c87HOn9bzEUVbw_5AEhJ7zeBVrhcJdplupEbbJctQW8yKcPDXj5IK37x35AX3Id2ZUonUsgzq-IRyioRiONsGOrsa-8Kz0JO1ACUoVXfEvYZE9pLV6KRf_el3CTCCuGOl1NSaWed?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/8jGMwyYBVuTKq6sesBr004EEWOsPYLcq8UIA59T7ckrHvTuNX9jiiAilcJOQyd5mhm1rlS42IGZYcT_1k7lliTMQT4FlDwjwZFXWVzEq3BW3XYQtjoKDLff4ddZ1uU3RNJ-4nFVafWeS2RY9mj7sRx63w55N_9x0i-Zq-cmbONraZbWO5do9DANqih2kH663?purpose=fullsize
 

なぜ重要か

複雑計算を「実務化」した。

計算尺以前、巨大建築や航海計算は非常に重労働。

対数の発見によって、掛け算 → 足し算に変換できる。

これは近代工学の巨大加速器でした。

本質

「人間の計算能力の拡張」


10. コンデンサ・トランジスタ

https://images.openai.com/static-rsc-4/mmAxrQETKg_Qi2BIPmcx0ra-4a2X2X74ZxsVcMACIE7HFPvqsvw1U8pvveseOZ-LcwZvkFkCjJuA-XyHMeMf1vr6zoyYhC-u0CL3Ky86OUkmKQBBkSNwlkwr2_h9xPB0QDdGgunJdCGo8sXgj0OzDQvIq56i3BEX4eTFIIzadYjMwPO0XzYRGwifrq9QWze6?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/SVb9JD59iMPEmrzhTdU41Paz6GYSoF3D0XQzK-U-rQO8_yiJK6KuuzmIs_ivkoINf2IhBfrcdVlPi66XdV6aZiQkKEOTBGImM_CH1NJhUguvCZyyvHMbTOgR0brS2JqZcZwVUJCiczTxhfGiRksArG3wDpChvXYwHAJA2P4xXW5hOXmzfHl6U8AOGjEwQnhs?purpose=fullsize
https://images.openai.com/static-rsc-4/CWjK8J8TsS3HVTmx8KAfDP9qNMoUR0bwbCFyRglKF3ZsWNYnXQAT3TcxTDR29sczh9UUgIbwtXhi59xYudybJ9U75EKeUB22Tz-4aXJ26I_pYvu5SoMGDViWt9uIHbuP82JsKUkv5xFQFghzOySh2TGycE8aWb4ppowVT5ct_j48gjQQIssSBkkKHRs2T6Py?purpose=fullsize
 

なぜ重要か

電気を“論理”に変えた。

これで、

  • コンピュータ
  • 通信
  • AI
  • 宇宙開発

が成立。

本質

「電気の情報化」


11. コンテナ

なぜ重要か

物流コストを革命的に下げた。

単なる箱ですが、これによって世界経済が一体化。

グローバル化の隠れた主役です。

本質

「物流の規格化」


12. API(現代版の“ねじ”)

 

なぜ重要か

ソフトウェア同士を接続する。

現代のITでは、

  • API
  • HTTP
  • TCP/IP

が「ボルト・ナット」に相当します。

異なるシステムが組み合わさり、
巨大ネットワークになる。

本質

「デジタル世界の接続規格」


面白い共通点

これらの多くは、

  • 地味
  • 小さい
  • 単独では感動が薄い

にもかかわらず、“他の技術を結びつける”ことで文明を変えています。

つまり歴史を動かすのは、必ずしも「派手な発明」ではありません。

むしろ、

  • 接続
  • 規格
  • 精度
  • 複製
  • 共通化

を実現する技術が、文明の相転移点になりやすい。


技術史的にいうと

蒸気機関そのものより、

  • 精密加工
  • ネジ規格
  • 鉄鋼品質
  • 工作機械

の方が、実は近代化の核心だった、という見方もあります。

同じように現代でも、

  • AIそのもの
    より
  • GPU
  • インターネット
  • データセンター
  • 半導体製造

のほうが「文明基盤」かもしれません。

これは非常に重要な視点です。

0630 起床 雨 それを癒すものは何なのか? 死の恐怖について。

血圧値 128/80/65 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 66.7キロ 運勢 The Emperor :R

 

辻邦生の初期の短篇小説に、『ある晩年』という作品があります。


新潮文庫「見知らぬ町にて」に収録されていましたが絶版なので、どうしたら読めるのかな。

 

 

今ならこの短篇アンソロジーが手に入れやすいかもです。

 

竪琴を忘れた場所

 

「竪琴を忘れた場所-辻邦生短篇選集 Lumière 」
辻 邦生 (著), 堀江 敏幸 (編集) 

 

0630 起床 晴 辻邦生の今って、どうなんだろう。本屋さんには売ってないなあ。 - にこたろう読書室の日乗

 

 

例えば、明日僕が死んでこの世からいなくなっても、この世界は何の影響も受けずに、「僕が居ない世界」として、何不足なくそのままあり続けるでしょう。

そうであるならば、僕のこのいのちには何の意味があるのか、という絶望的な虚無感。死の前におののくものとしての人間の存在意義とは。

生きるということは、この絶対的虚無の前にどう立ち尽くせばよいかを考えること。

そんなことを考えさせられる小説です。

 

ファン・スターデンという有能な老弁護士がある一身上の悲劇をきっかけに、十年一日のように行ってきた自身の生き方に疑問を持ち、長い煩悶と懊悩ののち、近くの公園の噴水の前で彼はひとりの詩人と出会います。

 

この最後の挿話において、ファン・スターデンは人間の日常生活が「物を右から左へ動かすこと」でしかなく根本的には「無意味のうえに立って」いること、噴水が高く上がったあと落ちてくることの無限の繰り返しと変わらないということを、詩人に聞かされる。

詩人はしかし、「噴水をみて」「私が噴水と一つになったような感じになる」ときに喜びを感じるのだという。

無限の繰り返しという無意味さを肯定し「虚無の中に立つこと」を引き受けるとき、「普遍の意志を生きうるように」なるのではないかと彼は結論付ける。

 

ファン・スターデンは詩人の述懐に「生命が成就する」ということの内実を見出し、強い歓喜と恍惚感に包まれ、このように独白する。

「純粋な欲望とは、こうした存在が、自分を超えた高い秩序を憧憬することにちがいない。それだからこそ、どの瞬間もこんなに美しく完成しているのだろう」

 

 

かつては、人が死ぬ時にはみなが集まって死の瞬間を共有する習慣がありました。

けれども人が病院で死ぬようになって、死は病院のなかに閉じ込められ、隠されるようになりました。そのことが死をより怖いものにしました。

 

死について話すことが避けられるようになり、一時は死について本人にも告知しない、周囲も話さないことが普通でした。そのために本人も周囲も死に備えることができませんでした。

いまは、死を告知し、死については自分で考えてくださいと変わってきています。

 

けれども死については、みな話したくありません。そのために、死を控えた人が孤立や排除を感じやすくなっています。

 

死の恐怖を癒すものは、何なのでしょうか。

 

 

 

歴史的に見ると、人間は「死そのもの」を克服したことはありません。しかし、多くの社会や文化は「死の恐怖」を和らげる仕組みを持っていました。

 

かつては、自宅で生まれ、自宅で死ぬことが普通でした。

死は日常の延長線上にありました。祖父母の死を子どもが見て、近所の人も集まり、通夜や葬儀を共同体で行う。

死は悲しいものでしたが、「特別な出来事」ではなく「誰もが通る道」でもありました。

 

現代では死は医療化されました。

 

病院の個室で死に、遺体は速やかに搬送され、周囲は日常生活を続ける。

死は見えなくなりました。

その結果、「死についての知識」も「死を受け止める共同体」も弱くなったのです。

 

では、死の恐怖を癒すものは何か。

 

四つあると思います。

 

①関係性

人は死そのものよりも、「一人で死ぬこと」を恐れることがあります。

だからホスピス医療では、痛みの緩和だけでなく、人とのつながりを重視します。

「自分はまだ誰かに必要とされている」
「自分の人生を覚えていてくれる人がいる」

そう感じられると、不思議なほど恐怖は和らぎます。

死の恐怖に対する最も古い薬は、実は愛情や共同体なのかもしれません。

 

②物語

宗教はその代表例です。

死後の世界、輪廻転生、天国、祖先の国。

それらが客観的に証明できるかどうかは別として、人間は「自分の死に意味がある」という物語によって支えられてきました。

宗教を持たない人でも同じです。

「子どもに何かを残した」
「仕事を通じて社会に貢献した」
「自分なりに生き切った」

そうした人生の物語が、死を単なる消滅ではなく人生の完結として位置づけます。

 

③準備

興味深いことに、不確実なものほど人は恐れます。

だから、

延命治療をどうするか
葬儀をどうするか
財産をどうするか
誰に何を伝えたいか

こうしたことを考えておくと、不安は減ります。

死が近づくから安心するのではなく、死を見ないふりをやめることで安心するのです。

 

④ 死を語れる場

現代社会に最も欠けているものかもしれません。

昔は共同体が自然に担っていました。

今は家族でも死の話を避けます。

しかし、「死ぬのが怖い」「自分がいなくなった後が心配だ」「本当は何を信じていいか分からない」、こうしたことを率直に話せるだけで、人はずいぶん救われます。

最近の「デスカフェ」や終活講座などが注目されるのも、そのためでしょう。

 

それらは未来を予言するためというより、「人生を有限なものとして見つめる」「自分はどう生きたいのかを考える」ための装置とも言えます。

死の恐怖を完全に消すものは、おそらくありません。

けれど、人類は長い歴史の中で一つの知恵を見出してきました。

 

それは、死を忘れることではなく、死について語れること。死を一人で抱え込まないことです。

 

「メメント・モリ(死を忘れるな)」

一見ネガティブに感じられるかもしれませんが、この言葉が伝えたいのは「死を恐れよ」ではなく、むしろ「死を意識して、今をよりよく生きよ」という人生の知恵です。

 

死の恐怖を癒す最大のものは、「私は一人でこの道を歩くのではない」という感覚なのではないかと思います。