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川の終わりは、どこにある?
目黒川をたどる旅も、いよいよ終盤です。
これまで、源流を探し、川がつくった谷を歩き、五反田や大崎の町の歴史を眺めてきました。
そして前回は、桜の名所になる前の目黒川を取り上げました。
工場があり、煙突が立ち並び、船が行き交う。
目黒川は、東京の産業と人々の暮らしを支えてきた川でした。
さて、今回は、その川が海へ出ていく場所を訪ねます。
川の終わりです。

でも、考えてみると、川の終わりとは、いったいどこなのでしょう。
水は上流から下流へ流れ、やがて海へ出ていきます。
地図を見れば、川の線が途切れる場所が河口です。
しかし、水の旅はそこで終わるわけではありません。海へ出た水は、海流や潮の動きに身を任せ、さらに遠くへ運ばれていきます。
川の終わりは、海の始まり。
今回は、そんな境界に立ってみたいと思います。

この写真は、1957年(昭和32年)に東京都品川区東品川1丁目(目黒川河口から天王洲方面)で撮影された光景だそうです。
品川宿と東海道
目黒川の下流には、江戸時代の東海道の宿場町、品川宿がありました。
江戸を出て東海道を西へ向かう旅人にとって、品川は最初の宿場です。
江戸の町を離れ、これから遠い旅へ出ていく人。
反対に、江戸を目指して長い道のりを歩いてきた人。
品川は、さまざまな人が行き交う場所でした。



いまの旧東海道を歩いてみると、往時の面影を残す場所がある一方、近代以降の建物も並び、町の姿が何度も変わってきたことが分かります。
東海道は陸の道です。
けれども、品川の歴史を考えるとき、陸路だけを見ていては不十分です。
すぐそばには海があり、そこへ注ぐ川がありました。
陸と海。
街道と船。
品川は、その二つが交わる場所でもあったのです。
品川湊と海の道
品川には、古くから港としての歴史もあります。
品川湊です。
中世以来、品川は海上交通や物資の流通と関わりを持ち、江戸時代にも江戸湾沿岸の重要な地域でした。
もちろん、当時の港の範囲や海岸線は、現在の地図とは違います。
いまでは陸地になっている場所も、かつては海や干潟に近かったかもしれません。
反対に、現在の河口の位置をそのまま昔の品川湊に重ねることもできません。
海岸線は、埋め立てや護岸工事によって変わってきたからです。
それでも、品川が陸の道だけでなく、海の道によっても支えられていたことは重要です。

東海道を歩く人々がいた。
海を通じて物資が運ばれていた。
そして、その近くを目黒川が流れていました。
川は、山や台地から水を集め、町を通り抜け、最後には海へ出ていきます。
その途中で、人間の暮らしや産業と結びついていくのです。
目黒川の河口は、昔から同じだったのか
ところで、ここで一つ、気になることがあります。
現在の目黒川の河口を地図で見ると、比較的まっすぐ海へ向かっているように見えます。
しかし、昔の地図を調べると、河口付近の川筋は、現在とは違っていたことが分かります。
明治期の目黒川は、いまのような直線的な流路ではありませんでした。
川は低地を蛇行しながら流れ、河口付近でも大きく迂回して海へ注いでいました。
右の現在の地図中の、八つ山通りが、左の地図中の蛇行する旧目黒川河道に当たります。


これは旧河口の、現在の様子。
鯨塚のある利田(かがた)神社の辺りです。


1926年(寛永3年)に、洲崎(目黒川河口の品川湊の砂州)の地に沢庵宗彭が弁才天を勧請したのが起源です。
当時は「洲崎弁天」と呼ばれ、修験道当山派の修験者が堂宇を管理していたそうです。

「鯨塚」というものがあります。
1798年5月1日に品川沖に迷い込み、品川浦の漁師たちによって捕えられた鯨の供養塔です。
鯨の体長は16.5mありました。
当時は江戸市中が大騒ぎとなり、鯨を一目見んと野次馬が殺到したそうです。
11代将軍・徳川家斉も、この鯨を浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)まで曳かせて供覧したといいます。
お馴染み、『江戸名所図会』です。

(江戸名所図会 巻之ニ 第四冊 洲崎弁天)

ちゃんと書き込まれていますね。
東京都内で唯一の鯨塚だそうです。
☆
ここで考えたいのは、川が曲がっていたこと自体ではありません。
なぜ、その川筋が変わったのか。
そして、誰が、何のために変えたのか。
川の流れは、自然の力だけで決まるわけではありません。
海の波が運ぶ砂によって河口が塞がれたり、川が運ぶ土砂が堆積したりすることもあります。
河口は、川の水が一方的に海へ流れ込むだけの場所ではないのです。
川と海が出会い、互いの力が作用する場所でもあります。
そして、そこへ人間の都合が加わります。
洪水を防ぎたい。
川の流れを安定させたい。
町を守りたい。
そうした願いが、川の形を変えていくことになります。
川のしっぽ
ここで、以前から考えていたことを思い出します。
川を一本の生き物にたとえてみたら、どうでしょう。
源流は頭。
支流は、途中から伸びてくる枝のようなもの。
そして、海へ向かって最後に伸びていく河口は、その生き物のしっぽです。

もちろん、これは地理学の用語ではありません。
見立てです。
川は山から生まれ、町を通り抜け、最後に海へたどり着きます。
その終わりにあたる場所を、しっぽと考えてみる。
すると、不思議なことに気づきます。
目黒川のしっぽは、自然がつくった形のままではなかったのです。
人間が川筋を変え、流れを整え、海へ出る場所をつくり直してきました。
では、その工事によって、何が変わったのでしょう。
川の形だけでしょうか。
いいえ。
川のそばにあった町も、橋も、神社も、川との位置関係を変えていきました。
次回は、その変化を具体的に見てみたいと思います。
舞台は、目黒川の河口に近い品川。
そして、荏原神社です。
川のしっぽは、人間の手によって、どのように形を変えられたのでしょうか。





















































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