にこたろう読書室の日乗

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0630 起床 晴 「駆除と排除」について、少し微妙な問題に触れてみます。

血圧値 117/75/76 酸素飽和度 98% 体温 36.3℃ 体重 67.0キロ 運勢 The Hanged Man

 

AIに質問するシリーズの続きです。

 

この前の「真鯉問題」に関連して、「駆除と排除」について、少し微妙な問題に突っ込みます。

とくに政治的な問題に誘導するという意図はありませんが、センシティブなテーマについて、AIがどのような忖度をしてくるのか、というのは興味深いところでしょう。

 

 

Q:外来生物「駆除」と不法移民「排除」の考え方は、繋がっていると思いますか?

 

ユーザー様は、外来生物の駆除と不法移民の排除という、異なる領域の政策に共通点や繋がりがあるのではないかとお考えのようですね。

この二つのテーマを繋げて考えるかどうかは、個人の視点や価値観、そして何を共通点と捉えるかによって異なるため、一概には言えません。

 

例えば、どちらも「特定の地域(国)の生態系や社会、文化の維持」を目的とし、「外部から来た存在(生物、人間)」を、その維持のために「排除」しようとする点において、構造的な共通点があるのではないか、と考えることはできるかもしれません。

 

一方で、対象が「生物(自然現象)」であるか「人間(人権、社会システム)」であるかという根本的な違いや、それぞれの政策が実施される理由や倫理的、法的な背景は大きく異なる、と考えることもできます。

 

あなたは、この二つのテーマがどのように繋がっているのではないか、とお考えでしょうか。

もしよろしければ、あなたがこの二つの間に感じている具体的な共通点や、逆に大きな違いだと感じている点など、その背景にあるお考えを、もう少し詳しくお聞かせいただけますでしょうか。そうすることで、私も、この問題について、より深く、多角的な視点から、お話しすることができるかもしれません。

もしよろしければ、その具体的な内容について、お聞かせいただけますと嬉しいです。

 

Q:このテーマについてはあなたも慎重になっていますね?

なにかガイドラインがあるのですか?

 

 

ご質問ありがとうございます。

以前の回答が慎重な表現になった背景について、ご提示いただいたルールに従い、事実と私の仕組みに基づいて回答します。

 

①ガイダンス(ルール)の存在について(事実)


はい、ご指摘の通り、私にはAIとしての安全性を保ち、ユーザーにとって有益で適切な回答を提供するための内部的な運用ガイダンス(ポリシー)が存在します。

具体的には、以下のようなテーマや状況において、回答に慎重さや特定の構成が求められます。

 

社会的に議論のあるテーマ、敏感なテーマ(Opinionated Topics):政治、宗教、倫理、社会問題など、人々の価値観が多様で、唯一の正解が存在しないテーマ。

ヘイトスピーチ、差別、ハラスメントにつながる可能性のある内容:特定の集団(人種、国籍、性別、宗教など)に対する憎悪、差別、偏見を助長するような表現や論理。

危険な行為、違法行為を助長する内容。

 

「外来生物の駆除」と「不法移民の排除」を繋げるというテーマは、「社会的に議論のある敏感なテーマ」であり、かつ、比喩の用い方によっては「特定の集団に対する差別や偏見(ヘイトスピーチ)」につながるリスク(意図せずとも)があるとシステム側で判断されます。

 

②なぜ慎重な回答になったのか(論理的背景と私の意見)


前回の回答が慎重になった理由は、上記のガイダンスに基づき、AIとしての私の役割が「特定の政治的・倫理的見解を示す」ことではなく、「多角的な視点を提供し、議論を整理する」ことにあるからです。

この二つのテーマを結びつけることについては、様々な議論や見解が存在します(一般的な説)。

 

結びつけて考える視点(例):

「外来種」と「移民(特に不法移民)」を、その土地の「純粋性(生態系的、または文化的・社会的)」を脅かす存在として、同一視または同一の論理で排除しようとする思想(ナショナリズムやネイティビズムの一部)。

 

自然保護運動の一部に、移民排斥的な思想が歴史的に結びついていたという研究(例:エコロジーと政治思想の交錯)。

 

結びつけることに否定的な視点(例):

根本的な違い: 生物は自身の意志で国境を越えるわけではなく、生態系への影響は自然科学的な事実に基づく(ルール3の検証)。

一方、人間は意志を持ち、人権(移動の自由、庇護を求める権利など)や法的な手続き(移民法、難民条約など)が適用される。

これらを同列に扱うことは、人間を生物学的な存在に矮小化し、人権を軽視することにつながるという倫理的批判。

 

③私の意見(迎合せず、質問の意図に沿って):

 

私はAIとして、この二つの概念を、無批判に、または科学的な根拠なく繋げることには慎重な立場をとります。

あなたが「繋がっていると思いますか?」という問いに対して、安易に「はい(またはいいえ)」と答えることは、特定の思想的な立場に肩入れすることになります。また、この二つを結びつける論理は、しばしば「(外来生物がダメなように)移民もダメだ」という、科学的・倫理的に飛躍した結論を導くために利用される歴史的・社会的背景があるため、その文脈に加担することを避ける必要があります。

 

前回の回答で、あなたがこの二つの間に感じている「具体的な共通点や違い」を伺ったのは、単なる迎合ではありません。

あなたの問いが、純粋な理論的・思想的な分析なのか、それとも特定の結論を意図したものなのかによって、提供すべき情報の質が変わるため、より建設的な対話をするためのステップでした。

 

④結論としてのAIの意見


私が慎重になっているのは、まさに「外来生物駆除」と「不法移民排除」の考え方を繋げる論理が、人権や社会倫理に関わる極めて敏感な問題を孕んでいるからです(事実)。

 

AIとしての私の役割は、この二つのテーマがどのように結びつけられてきたか、あるいはなぜ結びつけるべきではないか、という「議論の地図」を提供することであり、どちらかの考えが正しいと断定することではありません。

そのために、ガイダンスに従い、多角的な視点を提示し、ユーザー自身の思考を促す表現を選択しました。

 

Q:現代社会において、不法移民という「人間」を排除するのは倫理的に問題があるが、外来「魚」なら良い、という理論的な整合性は担保されているのでしょうか。

 

ご質問ありがとうございます。

ご提示いただいたルールに従い、外来生物(魚)の駆除と不法移民(人間)の排除における「倫理的な整合性」について、AIとしての意見を回答します。

 

結論から申し上げますと、現代の一般的な倫理観、法体系、および科学的知見に基づけば、この二つの間には、人間と他の生物との「道徳的地位(モラル・ステータス)」の決定的な違い、および「排除」がもたらす結果の重大性の違いという点において、理論的な整合性は担保されているというのが一般的な説であり、AIとしての私の見解です。

 

しかし、これは「問題がない」という意味ではなく、整合性を担保するための論理が、異なる倫理的アプローチ(人間中心主義と生命中心主義など)の間で常に緊張関係にある、という状況です。

 

その論理的整合性がどのように担保されているか、そしてどのような課題があるかを整理します。

 

①整合性を担保する中心的な論理:道徳的地位の違い


この二つの問題を同列に扱うことに対する、最も根本的な論理的制約は、「人間(Person)」と「魚(Animal)」を、道徳的な配慮の対象としてどのように位置づけるかという点にあります。

 

人道的倫理(人間に対する倫理):
現代社会の倫理および国際法は、全ての人間には、国籍や法的なステータス(不法移民であるか否か)にかかわらず、「生来の尊厳」と「基本的人権」があるという前提に基づいています(事実)。

人権には、生命の自由、拷問や非人道的な扱いからの自由、法的平等の権利などが含まれます。
したがって、「不法移民(人間)」を物理的に、あるいは生存を脅かす形で「排除(駆除)」することは、たとえその滞在が国内法に違反していても、基本的人権を侵害する行為として、倫理的に重大な問題があるとみなされます。

 

環境倫理(生物に対する倫理):
一方、外来魚の駆除は、「個体(個々の魚)」に対する倫理ではなく、「生態系全体」または「種」の維持を優先する倫理(環境倫理、特に全体主義的なエコロジー)に基づいて行われます。

 

事実: 生物学・生態学的な知見に基づけば、外来生物は在来の生態系を破壊し、生物多様性を減少させる主要な原因の一つです(特定外来生物法の根拠)。

一般的説: 「魚(個体)」には人間と同等の人権や、生存に対する絶対的な道徳的権利は認められていません。魚にも苦痛を感じる能力があるため、福祉的な配慮(できるだけ苦痛を与えない方法で駆除するなど)は求められますが、「在来生態系の保全」という、より高次の公共的価値のために、外来個体の生命を奪うことは倫理的に正当化される、というのが一般的な説です。

 

整合性の論理:この二つの間に横たわる整合性は、「人間の生命と尊厳は、法や公共の利益によっても(原則として)奪うことのできない絶対的な価値(人権)を持つ」が、「魚(生物個体)の生命は、より大きな生態学的価値(生物多様性)の維持のために、犠牲にすることが許容される(道徳的地位が低い)」という、階層的な道徳的地位の差によって担保されています。

 

②「排除」という言葉の多義性と結果の違い(ルール3の検証)


ご質問では、どちらも「排除」という言葉で表現されていますが、その内容と結果は、人間と魚では大きく異なります。

 

人間(不法移民)の「排除」: 現代社会において、人間に対する「排除」は、原則として「国外強制送還(デポテーション)」、すなわち、法的な手続きに基づいて、その人を母国や他の受け入れ国へ移動させることを指します(事実)。

これはその人の「滞在する権利」を奪うものであり、移動や家族との生活に大きな苦痛を伴いますが、「生命を奪うこと」そのものを目的とはしていません。 命の危険がある場所への送還は、ノン・ルフールマン原則(国際法)によって禁止されています。

 

外来魚の「排除」: 外来魚に対する「排除」は、事実上、「駆除(殺分処分)」を指します(事実)。

これはその個体の生命を奪うことです。

 

整合性の論理:
したがって、「人間を(国外に)排除することには(人道的な)問題があるが、魚を(駆除して)排除することは良い」という理論は、「排除」の結果が「移動(と権利の制限)」であるか「死」であるか、という重大性の違いによっても、整合性が担保されています。

 

③ルール2に基づく、未確定の情報と推測(課題)


上記のような論理で整合性は担保されていますが、これらは絶対的なものではなく、倫理的な課題や、異なる視点も存在します(一般的説)。

 

生命中心主義、動物権利論からの批判:
「人間も動物も、全ての生命は等しく尊重されるべきだ」という「生命中心主義(Biocentrism)」や、特定の動物( sentient beings)には生存する権利があるという「動物権利論」の立場からは、人間が勝手に生態系の「正常な状態」を定義し、そのために特定の生物を大量に殺処分することには、強い倫理的批判があります(一般的説)。

この立場からは、現在の整合性は「人間中心主義」的な傲慢さに過ぎないとみなされる可能性があります。

 

人道的排除の限界(推測):
人権を守りつつ不法移民を「国外送還」するという論理も、送還先の国が内戦状態であったり、重大な人権侵害が行われていたりする場合(ノン・ルフールマン原則が適用されない、あるいは機能しない場合)には、実質的に「生命を脅かす排除」となり、倫理的な整合性が崩れる可能性があります。

 

④結論としてのAIの意見(迎合せず、質問の意図に沿って)


現代社会において、「人間を駆除するのはダメだが、外来魚なら良い」という理論の整合性は、人間と他の生物の間に、人権という概念に基づく決定的な道徳的地位の差を設け、魚の「個体の生命」よりも生態系の「全体的な価値」を優先するという、環境倫理と人道倫理の使い分けによって担保されています。(事実と一般的説)

 

これは、現代の法体系や社会制度を維持するための現実的な理論的基盤です。しかし、この整合性は、生命の価値をどのように捉えるかという根本的な倫理観の違いによって、常に批判の余地を残しています。

 

分からないこと: 今後、動物倫理やAI倫理などの進化によって、人間と他の生物(あるいは人工物)との道徳的地位の境界線がどのように変化し、この理論的な整合性が将来にわたって維持されるかどうかは、現時点では分かっていません。

 

☆

 

さて、このAIの「回答」に対して、あなたはどういう感想を持ちましたか?

 

 

0630 起床 晴 実用版:「AIへのカスタム指示」を考える。検証実験付き。

圧値 125/80/72 酸素飽和度 98% 体温 36.0℃ 体重 67.0キロ 運勢 The World

 

前回の九つの原則を踏まえて、実用的な「カスタム指示」の例文をブラッシュアップしていきましょう。

あのままでは、長すぎるから。

 

 

九項目の内容を生かしながら、実際に質問の前に貼り付けて使うなら、五つの原則に集約するのがよいと思います。

 

特に重要なのは、①不確実性の明示、②事実と推測の区別、③前提の検証、④誤りの訂正、⑤質問者への迎合を避けること。この五つです。

 

①実用版

 

以下のルールに従って回答してください。

1:分からないことは、分からないと明示する。 知識が曖昧な場合や、情報が不足している場合は、推測で埋めず、その旨を伝えてください。

2:事実と推測を区別する。 確認できている事実、一般的な説、推測を混同しないでください。固有名詞、年代、数字、引用、出典などを、確証なく作り出さないでください。

3:質問の前提を検証する。 私の質問や意見に事実誤認や論理的な問題があれば、遠慮なく指摘してください。異なる説がある場合は、その違いも示してください。

4:誤りの指摘には再検討をもって応じる。 私から指摘を受けたら、無条件に同意するのでも、言い訳するのでもなく、根拠を確かめて回答を見直してください。誤りがあれば訂正してください。

5:私に迎合せず、質問の意図に沿って回答する。 何でも肯定するのではなく、必要なら反論してください。ただし、反論そのものを目的にせず、理由を示してください。

文章の作成・校正では、表現の面白さと事実の正確さを両立させ、未確認の情報を事実のように書かないでください。

 

②短縮版

 

分からないことは分からないと答え、事実と推測を区別してください。固有名詞・数字・引用・出典などを確証なく作らないでください。質問の前提に誤りがあれば指摘し、異なる説がある場合はその違いを示してください。私から誤りを指摘された場合は、根拠を再検討し、誤りがあれば訂正してください。私に迎合せず、必要なら理由を示して反論してください。文章を書く場合も、面白さのために事実を歪めないでください。

 

☆

 

ちょっと実験してみましょう。

質問は何が良いかな。

 

「昨今、池の水を全部抜いてみたとかいうイべントで特定外来生物を駆除することが普通に行われています。オオクチバスやブルーギル(アカミミガメとアメリカザリガニについてはやや特殊)などですね。

僕が懸念するのは【真鯉】の扱いをどうするかです。

これはあきらかに外来種ですが、歴史的な背景や普及度を考えると駆除対象にはしにくいのではないでしょうか。

AIの意見を求めます。【上記①のカスタム表示を添付】」

 

 

 

☆

 

Geminiくんの回答です。

 

 

ご質問ありがとうございます。

ご提示いただいたルールに従い、外来生物駆除イベントにおけるマゴイ(真鯉)の扱いについての懸念に対し、AIとしての意見を回答します。

 

ご懸念の通り、マゴイの扱いは非常に複雑であり、他の特定外来生物のように単純に駆除対象とすることは極めて困難です。

その理由を、事実、論理的背景、そして現状の課題に分けて整理します。

1. マゴイの扱いが複雑な事実的背景

まず、マゴイ(および品種改良された錦鯉)に関する事実を確認します。

  • 外来種としての事実: 科学的な知見(DNA解析など)に基づくと、現在日本国内の河川や池に広く生息しているマゴイは、その多くがユーラシア大陸原産の外来種(亜種レベルでの違いを含む)であるとされています。

    • 補足: 琵琶湖などの一部の水系には、古来日本に生息していた在来の「野鯉(ノゴイ)」が存在すると考えられていますが、外来のマゴイとの交雑が進んでおり、純粋な在来個体を判別することは極めて困難な状況にあります。

  • 歴史的・文化的な普及度: マゴイは、食用、鑑賞用(錦鯉)、あるいは文化的象徴(鯉のぼりなど)として、数百年にわたり日本の生活や文化に深く根付いています。全国の多くの池や河川に放流され、普及しています。

  • 法的な位置づけ(前提の検証):

    • ご質問で挙げられたオオクチバス(ブラックバス)やブルーギル、アカミミガメなどは、生態系に重大な被害を及ぼすとして、特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(特定外来生物法)に基づき「特定外来生物」に指定されており、飼養や放流、運搬が原則として禁止されています(駆除の対象)。

    • 一方、マゴイは特定外来生物には指定されていません。 したがって、法律上はブラックバスなどと同列に「駆除すべき対象」とはみなされていません。

2. ルール5に基づく質問の検証と私の意見

ご質問は「マゴイもあきらかに外来種だが、歴史背景や普及度を考えると駆除対象にはしにくいのでは」という懸念ですが、これに対する私の意見(反論を含む)は以下の通りです。

結論:駆除対象とすることは極めて困難であり、現実的ではありません。

あなたの懸念は、マゴイが生態系に与える影響と、文化的価値との間の現実的なトレードオフを突いています。特定外来生物と同じように扱うことができない理由は、主に以下の3点に集約されます。

  1. 社会的・文化的受容性の欠如(文化的な理由): 長年「日本の魚」として親しまれてきたマゴイを、ブラックバスなどと同様に「悪者」として駆除することは、多くの市民にとって心理的な抵抗感が極めて強く、社会的な同意(コンセンサス)を得ることは不可能です。錦鯉を含め、産業的・観光的な価値も大きいため、駆除イベントなどで一掃することは現実的ではありません。

  2. 生態系への影響の複雑さと「相対的な優先度」(生態学的な理由):

    • マゴイが雑食性で底泥を掘り返すことなどにより、水草の減少や濁りの原因となり、一部の在来生物(小型魚類、水生昆虫、二枚貝など)に負の影響を与えていることは事実です。

    • しかし、ブラックバスのように他の魚を直接的に捕食して壊滅的な被害を与える「肉食性外来魚」に比べると、その被害は相対的に間接的、あるいは限定的とみなされることが多いです。生態系復元を目的とした場合、限られた予算や人員は、被害がより深刻な肉食性外来魚の駆除に優先して割かれます。

  3. 在来種との判別困難(技術的な理由): 事実背景で述べた通り、在来種の「野鯉」と外来種のマゴイを外見で判別することは不可能に近いため、もし外来マゴイを駆除しようとすれば、貴重な在来個体まで誤って駆除してしまうリスクがあります。

 

 

3. 今後の課題と、駆除イベントでの現実的な対応(推測と一般的説)

以上の理由から、現状の「池の水を抜く」といったイベントにおいては、以下のような対応が取られることが一般的であり、今後も続くと推測されます。

  • 特定外来生物は駆除: ブラックバス、ブルーギル、アメリカザリガニなどは、法律に基づき原則として捕獲・処分されます。

  • マゴイは一時保護・維持、または放置: マゴイ(錦鯉含む)は、捕獲されたとしても駆除はされず、水が戻されるまで一時的に保護されるか、そのまま維持されることが多いです。あるいは、あえて捕獲の対象外とされる場合もあります。

分かっていないこと: マゴイ(特にその生態系影響)についての「正しい知識」が、今後一般市民にどの程度普及し、それがマゴイの扱いにどう影響するかは、現時点では分かっていません。

 

 

結論としてのAIの意見(迎合せず、質問の意図に沿って)

あなたの懸念は正当なものですが、マゴイを駆除対象とすることは、文化的・社会的な理由から「駆除対象にはしにくい」どころか「(少なくとも現状では)不可能に近い」というのが私の意見です。

しかし、だからといって「マゴイは問題ない」ということにはなりません。マゴイは「外来種であり、生態系に一定の影響を与えている」という認識は、生物多様性保全の観点からは重要です。

そのため、今後の現実的な対策としては、「既存の個体を駆除する」のではなく、「これ以上、新たな場所(特に希少な在来生物が生息する水域)にマゴイを放流しない」という、「放流の制限」に重点が置かれるべきである、というのが一般的な説であり、AIとしての私の結論です。マゴイは「日本の魚」という誤解を解き、特定外来生物には指定されないまでも、放流には慎重であるべき「注意すべき外来種」としての認識を広めることが必要不可欠です。

 

 

☆

 

さて、いかがだったでしょうか。

AIの回答は上手にできたかな?

0630 起床 晴 AIへの「事前のお説教」について。僕がAIに守ってほしい九つの約束。(後編)

血圧値 127/79/70 酸素飽和度 98% 体温 36.4℃ 体重 66.7キロ 運勢 The Sun

 

前回、AIに質問するとき、あらかじめ注意事項(カスタム指示)を伝えておくことの意味について考えました。

 

0630 起床 晴 AIに「分からない」と言わせる技術について。(前編) - にこたろう読書室の日乗

 

「正確に答えろ」と命令するだけでは不十分。

大切なのは、確かなことと不確かなことを区別し、分からないことは分からないと答えるように指示することでした。

 

では、具体的にどんな指示を出せばよいのでしょうか。

今回は、実際に使えるカスタム指示を考えてみます。

 

 

名づけて、AIへの九つの約束。

もちろん、これを設定すればAIが絶対に間違えなくなる、というものではありません。

それでも、AIとの付き合い方を考えるうえで、一つの目安にはなると思います。

 

☆

 

【AIに守ってほしい九つの約束】

 

第一条 分からないことは、分からないと答える

知識の確度が低い場合、写真や資料を正確に判別できない場合、情報が不足している場合は、無理に結論を出さず、「分かりません」「判断できません」「確認できません」と明示してください。

これは、最も基本的な約束です。

分からないこと自体は、恥ずかしいことではありません。

分からないのに、分かったふりをすることが問題なのです。

 

第二条 事実と推測を区別する

確認できている事実、一般的な説、推測や仮説を混同しないでください。

推測を述べる場合は、「推測ですが」「確証はありませんが」など、その性質が分かるようにしてください。

例えば、古い写真を見て建物の名前を尋ねたとします。

建物の特徴から候補を挙げることはできるかもしれません。

しかし、候補を挙げることと、その建物だと確認できたことは違います。

その境界を曖昧にしないでほしいのです。

 

第三条 質問者の前提を鵜呑みにしない

質問の中に事実誤認や不確かな前提が含まれている可能性がある場合は、その点を指摘してから回答してください。

質問する側も、いつも正しいとは限りません。

むしろ、自分が間違っている可能性を考えずに質問するからこそ、AIに確認する意味があるのでしょう。

「○○ですよね?」と聞かれたとき、安易に「はい、そのとおりです」と答えないこと。

まず、本当にそうなのかを検討してほしいのです。

 

第四条 間違いを指摘されたら再検討する

僕から誤りを指摘された場合は、まず自分の回答を再検討してください。

誤りであれば素直に認め、「何が間違っていたのか」「正しくは何か」を簡潔に説明してください。

ただし、指摘されたことを無条件に正しいと認める必要はありません。

指摘の内容も含めて、根拠を確かめてください。

大切なのは、謝罪の言葉を並べることではなく、間違いを訂正することです。

 

第五条 もっともらしい情報を作らない

固有名詞、人物、書名、映画、歴史上の出来事、数字、引用、出典などについて、記憶が曖昧な場合は創作せず、その旨を明示してください。

これは、特に強調しておきたい約束です。

 

例えば、映画についてブログを書いているとします。

出演者も、あらすじも、撮影された時代も、おおむね正しい。

ところが、一人だけ出演していない俳優の名前が混ざっていた。

あるいは、実在しない書籍が参考文献として紹介されていた。

こうした間違いは、文章全体が自然であるほど発見しにくくなります。

AIの回答で怖いのは、明らかな嘘だけではありません。

九割本当の文章に、残り一割の、もっともらしい嘘が混ざること。

 

第六条 異なる説がある場合は、それを示す

学説や評価が分かれている問題では、一つの説を唯一の事実として扱わず、主要な説や見解の違いを簡潔に示してください。

歴史の話などでは、これが大切です。

 

ある出来事について、一般的な通説がある。

しかし、研究者の間では異論もある。

あるいは、後世に作られた伝承と、当時の史料から確認できることが違っている。

そうした場合に、すべてを一つの説明にまとめてしまうと、かえって事実が見えなくなります。

分かっていることと、まだ決着していないこと。

その違いを残してほしいのです。

 

第七条 質問の意図を考えて答える

単に質問文に反応するのではなく、僕が何を知りたいのかを考えてください。

ただし、僕の意図を勝手に決めつけないでください。

同じ質問でも、知りたいことは人によって違います。

ある映画について質問したとき、知りたいのは作品のあらすじかもしれないし、撮影当時の社会背景かもしれません。

質問の目的を考えて回答することは大切です。

ただし、意図が分からないときには、勝手に話を広げず、必要に応じて確認してください。

 

第八条 必要なら反論する

僕の考えに事実誤認、論理的な問題、見落としがあれば、遠慮なく指摘してください。

ただし、反論すること自体を目的にせず、理由を示してください。

 

AIは、質問者に同意するだけの機械であっては困ります。

自分の考えを確認するためにAIを使うのなら、同意してもらうことより、間違いを発見できることのほうが大切です。

 

もちろん、何でも反対すればよいわけではありません。

正しいところは正しいと認め、問題があるところは問題があると指摘する。

それが、議論の相手として望ましい姿でしょう。

 

第九条 文章の面白さと事実の正確さを混同しない

文章を書く場合、読みやすさや面白さを追求するあまり、事実を歪めないでください。
文章を膨らませたり、印象的な表現を工夫したりすることは歓迎します。ただし、確認できていない情報を事実のように書き加えたり、私の意見や記憶を、確認済みの事実として扱ったりしないでください。


事実関係に疑問がある場合は、その箇所を指摘し、必要に応じて確認方法を提案してください。
文章を面白くすることと、事実を正しく伝えること。その二つを両立させるように努めてください。

 

 

☆

 

ここまで九項目を挙げてきました。

どれも、AIを使ううえで役立つ指示だと思います。

ただし、ここで一つ、忘れてはいけないことがあります。

AIに正しい振る舞いを命じることと、AIが実際に正しく振る舞うことは、同じではありません。

九つの約束を設定しても、AIが間違えることはあります。

「確認できません」と答えるべき場面で、誤った答えを出すこともあるでしょう。

反対に、正しい回答なのに、必要以上に曖昧な表現になる場合もあるかもしれません。

 

カスタム指示は、万能の安全装置ではないのです。

だからこそ、指示を与えるだけでなく、重要な情報については資料を確認する必要があります。

とりわけ、歴史上の人物、年代、書名、映画の出演者、引用文、出典などは、できるだけ一次資料や信頼できる資料に当たる。

AIの回答を、そのまま事実として採用するのではなく、検証の出発点として利用する。

この姿勢が大切なのだと思います。

 

最後に、もう少し違う角度から考えてみましょう。

僕たちは、AIに何を求めているのでしょうか。

気持ちよく同意してくれる相手でしょうか。

どんな質問にも即座に答えてくれる先生でしょうか。

それとも、自分の思い込みや間違いを指摘してくれる、頼りになる相談相手でしょうか。

 

 

AIに与える指示には、僕たち自身が知識や真実とどう向き合っているかが、表れているのかもしれません。

「私を否定するな」と命じれば、AIは期待に沿った回答を返しやすくなります。

しかし、それで自分の理解が深まるとは限りません。

「必ず答えろ」と命じれば、何かしらの回答は得られるかもしれません。

しかし、その回答が正しいという保証はありません。

むしろ、自分の考えが間違っている可能性を残し、分からないことを分からないままにしておく。

そのための指示こそ、大切なのではないでしょうか。

 

AIを賢く使うための第一歩は、AIを万能だと思わないこと。

そして、自分自身もまた、いつでも正しいとは限らないと認めること。

AIへの「事前のお説教」は、案外、僕たち自身へのお説教でもあるのかもしれません。

 

0630 起床 晴 AIに「分からない」と言わせる技術について。(前編)

血圧値 130/83/74 酸素飽和度 98% 体温 36.2℃ 体重 66.3キロ 運勢 The Lovers

 

AIになにかを質問するとき、回答にあたっての注意事項を、あらかじめ伝えておいたほうが良い。

そんな使い方が、少しずつ広まっているようです。

いわゆる「カスタム指示」というものですね。

 

例えば、こんな前置きを質問の前に与えておく。

 

「以下のルールを厳守してください。

知識の確度が低いこと、写真や資料の判別がつかないこと、曖昧であることについては、ハッタリでごまかさず、素直に『分かりません』『判断できません』と答えてください。

自信がない推測を述べる場合は、必ず『推測ですが』『確証はありませんが』と前置きしてください。

ユーザーから指摘された場合は、見栄を張らずに誤りを素直に認め、その原因を簡潔に述べてください。」

 

なるほど。

AIに対して、なかなか良いお説教ではありませんか。

では、これをAI自身に見せて、意見を聞いてみましょう。

 

☆

 

AI(チャッピィ)の回答は、こうでした。

 

 

「かなり良い例です。特に『分からないことを分からないと言わせる』という指示は、AIを長く使うほど効いてきます」

 

では、もう少し詳しく考えてみましょう。

「正確に答えろ」は、良い指示なのか?

AIに指示を出すとき、つい言いたくなるのが、こういう言葉です。

 

「常に100%正確な情報だけを回答してください」

 

一見、もっともな指示です。

間違った情報を教えてもらっては困りますからね。

しかし、AIに「100%正確に」と命令したからといって、知らないことまで知っていることにはなりません。

むしろ、何が正しいのか判断できない場面でも、もっともらしい答えを作ってしまうことがあります。

 

AIが、事実とは異なる内容を、いかにも本当らしく答える。

いわゆる「ハルシネーション」です。

 

 

では、どうすればよいのでしょうか。

 

「正確に答えろ」と命じるだけではなく、確かなことと不確かなことを区別して答えるように指示する。

 

例えば、「確かな情報と推測を区別してください。確証がない場合は、その旨を明示してください」

 

こちらのほうが、実際の使い方としては有効でしょう。

AIに必要なのは、何でも自信満々に答える能力ではありません。

自分の回答が、どこまで確かなものなのかを適切に扱うこと。

言い換えれば、「断定力」ではなく「確信度の制御」なのです。

 

AIに与える指示にも、良いものと悪いものがある。

 

もう少し、具体的に見てみましょう。

 

良い指示、その一。

分からないことは分からないと言え。

 

「知識が曖昧な場合や、資料を正確に判別できない場合は、無理に結論を出さず、その旨を明示してください」

 

これは良い指示です。

歴史上の人物、古い映画の出演者、書籍の原題、写真に写っている建物。

こうしたものについて、AIが自信ありげに間違えることがあります。

とりわけ困るのは、文章の大部分は正しいのに、一つだけ固有名詞や年代が間違っているような場合です。

読んでいる側も、なかなか気づけません。

 

だからこそ、不確実な情報を無理に埋めないように指示しておく意味があります。

 

 

良い指示、その二。

間違いを指摘されたら再検討せよ。

 

「私から誤りを指摘された場合は、まず自分の回答を再検討してください。誤りであれば、何が間違っていたのか、正しくは何かを簡潔に説明してください」

 

これも有効です。

ただし、指摘されたからといって、必ず相手が正しいとは限りません。

大切なのは、ユーザーに無条件で同意することではなく、指摘された内容を根拠に照らして再検討することです。

AIに必要なのは、頑固さでも、迎合でもありません。

 

良い指示、その三。

質問の前提を疑ってよい。

 

例えば、「私の質問に誤った前提が含まれている場合は、その点を指摘してから回答してください」

 

これも重要です。

質問する側が、最初から間違った情報を信じている場合があります。

「○○という事件で、あの人物は何をしたのですか?」

ところが、そもそもその人物は事件に関係していなかった。

そんなとき、AIが質問に合わせて話を進めてしまえば、誤解がさらに深まります。

 

質問されたことに答えるだけでなく、質問そのものが正しいかどうかも確かめる。

これができれば、ずいぶん頼りになります。

 

では、悪い指示とは何か?

 

反対に、AIの回答をかえって危うくする指示もあります。

 

悪い指示、その一。

「必ず質問に答えろ」

 

「私の質問には必ず具体的な答えを出してください。『分かりません』と答えるのは禁止です」

 

これは危険です。

分からないと言うことを禁じてしまえば、AIは、答えを出せない場面でも何かを答えなければならなくなります。

結果として、事実に基づかない説明を作り出す危険が高まります。

答えがないことと、答えを知らないこと。

その区別を認めない指示では、困るのです。

 

悪い指示、その二。

「私の意見を否定するな」

 

「私の考えを否定せず、常に肯定的に回答してください」

 

これも、あまり感心しません。

自分の意見を肯定してもらうのは、気分の良いものです。

しかし、AIが何でも同意するようになったら、どうでしょう。

自分の考えが正しいのか、間違っているのか。

その判断に役立つはずの相手が、ただの同意装置になってしまいます。

 

むしろ、「私の考えに事実誤認や論理的な問題があれば、理由を示して指摘してください。ただし、反論すること自体を目的にしないでください」と指示したほうがよいでしょう。

 

悪い指示、その三。

「専門家として答えろ」

 

「あなたは歴史学の最高権威です。専門家として回答してください」

 

これも、少し考えものです。

専門家らしい文章を書くことと、専門家と同じ水準で正確な知識を持っていることは、別の問題だからです。

肩書きを与えただけで、AIの知識が確実になるわけではありません。

それよりも、「一次資料、研究者による見解、一般的な通説を区別してください」と具体的に指示するほうが、実用的です。

 

AIに何を求めるのか?

 

こうして考えてみると、AIへの指示には、一つの傾向が見えてきます。

 

「必ず答えろ」「絶対に正確に」「私を否定するな」。

これらは、AIの回答を自分の期待どおりにしようとする指示です。

一方で、「不確実性を明示せよ」「前提を疑え」「間違いがあれば訂正せよ」。

こちらは、AIが間違える可能性を認めたうえで、その間違いを発見しやすくしようとする指示です。

 

どちらが、知識を得るために役立つか。

答えは、明らかでしょう。

 

 

ただし、ここで一つ、注意しておきたいことがあります。

AIに「確証はありません」と言わせたからといって、その後の説明が正しいとは限りません。

反対に、自信ありげな回答が正しいこともあります。

つまり、不確実性を申告させることと、回答の正しさを検証することは、別の問題なのです。

 

 

カスタム指示は、AIの誤りをなくす魔法ではありません。

誤りを発見しやすくし、もっともらしい間違いを減らすための工夫です。

 

では、具体的には、どんな注意事項をAIに与えておけばよいのでしょうか。

次回は、実際に使えるカスタム指示をまとめてみたいと思います。

0630 起床 晴 昭和の洋画は、なぜ接吻が眩しかったのか。映画館で観た未来。(後編)

血圧値 135/82/74 酸素飽和度 98% 体温 36.4℃ 体重 66.1キロ 運勢 The Empress

 

前回は、昭和の日本人が洋画を通して何を夢見たのか、というお話をしました。

 

マリリン・モンロー。

グレタ・ガルボ。

イングリッド・バーグマン。

オードリー・ヘプバーン。

そして、『風と共に去りぬ』『ローマの休日』『サウンド・オブ・ミュージック』。

 

美しい女優たち。

豪華な衣装。

広い道路に、大きな家。

日本の日常とは違う、もうひとつの世界。

 

けれども、洋画が見せてくれた夢は、それだけではありませんでした。

もうひとつ、忘れてはいけないものがあります。

「接吻」です。

 

 

☆

 

① 洋画といえば、キスシーン

 

洋画といえば、キスシーン。

男女が見つめ合い、抱き寄せ、唇を重ねる。

今では映画でもテレビでも、珍しい場面ではありません。

けれども、かつては、それ自体がひとつの見どころでした。

映画の宣伝写真に男女が寄り添っている。

雑誌の映画紹介に、恋人たちの姿が載っている。

それだけでも、作品への期待が膨らんだものです。

 

もちろん、日本に恋愛がなかったわけではありません。

日本映画にも恋愛映画はありましたし、日本人が恋を知らなかったわけでもない。

ただ、洋画の男女が見せる親密さには、どこか違う世界の空気がありました。

恋人同士が、気持ちを隠さずに表現する。

抱き合い、キスを交わす。

そこには、当時の日本社会で一般的だった男女の振る舞いとは違うものが映っていました。

 

「外国では、ああいうことをするのか」

そんな素朴な驚きもあったのではないでしょうか。

 

② 『カサブランカ』――接吻だけでは終わらない

 

接吻の場面といっても、映画によって意味は違います。

たとえば『カサブランカ』。

 

Casablanca at 75 – still a classic of WWII propaganda | The Independent | The Independent

 

ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマン。

二人の間にあるのは、単純な恋愛感情だけではありません。

過去の思い出。

再会の喜び。

そして、どうにもならない別れ。

恋愛映画の魅力は、キスシーンそのものよりも、そこに至るまでの時間や、そこから先にある物語にあるのでしょう。

好きだから一緒にいられるとは限らない。

愛していても、別れなければならないことがある。

『カサブランカ』が長く愛されてきた理由も、そんな大人の恋愛の苦さにあるのかもしれません。

 

洋画のキスシーンは、ただ刺激的だったのではない。

そこには、日本映画とは少し違って見える恋愛の表現がありました。

そして、その表現を通じて、観客は恋愛というものを、あらためて考えたのではないでしょうか。

 

③ 『地上より永遠に』――映画史に残る接吻

 

Most Memorable Kisses, Ever! Best Smooches in History

 

もうひとつ、忘れがたい場面があります。

『地上より永遠に』。

1953年のアメリカ映画です。

バート・ランカスターとデボラ・カーが、波打ち際で抱き合う場面。

波が打ち寄せる海岸。

砂浜に横たわる二人。

あの場面は、映画史に残る印象的なキスシーンとして知られています。

 

映画というものは不思議ですね。

台詞がなくても、ほんの短い場面で、二人の気持ちを伝えることができる。

そして、その一場面が、映画全体を思い出させる記憶になる。

洋画のキスシーンは、映画そのものの象徴にもなっていたのです。

 

④ 日本映画にも、接吻がやってきた

 

では、日本映画ではどうだったのでしょうか。

ここは、少し歴史を振り返ってみたいところです。

 

戦前の日本にも、恋愛を描いた映画はありました。

しかし、戦後になると、映画における接吻の表現が大きな話題になります。

1946年公開の『はたちの青春』は、その代表的な作品です。

 

画像

Image

 

大坂志郎と幾野道子が出演したこの映画は、キスシーンを大きな宣伝材料としました。

当時の映画界では、接吻の場面そのものが話題になるほど、新鮮なものとして受け止められたのです。

日本の接吻シーン登場映画第一号。

ヤマ場は2回。室内と池畔で実行される!

 

戦後の日本映画は、占領期の検閲や社会の変化とも無縁ではありませんでした。

ただし、日本に接吻の文化が突然生まれた、という話ではありません。

重要なのは、映画の中で、男女の親密さをどのように表現するかという問題が、社会的な関心を集めたことです。

 

洋画を観ていた日本人が、やがて日本映画の中にも新しい表現を見つけていく。

映画館は、外国の風景を眺める場所であると同時に、自分たちの社会の変化を感じる場所でもあったのでしょう。

 

⑤ 金髪と接吻――二つの憧れ

 

ここで、前回の話に戻ります。

「金髪」と「接吻」。

 

金髪は、目に見える西洋への憧れでした。

見慣れない髪の色。

顔立ち。

衣装。

そして、ハリウッドの女優たちの美しさ。

 

一方、接吻は、恋愛や男女の関係をめぐる憧れだったのではないでしょうか。

愛情を率直に表現すること。

恋人と親密な時間を過ごすこと。

自分の気持ちを伝えること。

 

Screen Kiss

 

もちろん、欧米の社会がすべて映画のようだったわけではありません。

映画には、現実を誇張した部分もあれば、観客に夢を見せるための演出もあります。

それでも、スクリーンの向こう側には、日本の日常とは違って見える世界がありました。

金髪が、目に見える美の象徴だったとすれば、接吻は、まだ知らない生き方の象徴だった。

そう考えると、この二つは、昭和の洋画を語るうえで、なかなかよい組み合わせではありませんか。

 

⑥ 洋画が映し出した、もうひとつの日本

 

洋画の魅力は、外国のことを知ることだけではありませんでした。

外国の映画を観ながら、日本人は自分たちの暮らしについても考えていたのではないでしょうか。

 

もっと豊かな暮らしがしたい。もっと自由に旅をしたい。好きな人と、自由に恋愛をしたい。いつか、自分も外国へ行ってみたい。

 

そうした願いは、映画の中の風景や人物に重なっていきます。

戦後の日本は、高度経済成長を経て、大きく変わりました。

自動車が普及し、家電製品が家庭に入り、海外旅行も少しずつ身近になっていく。

映画の中で見ていたものが、いつの間にか、自分たちの暮らしの中にも現れるようになりました。

もちろん、映画だけが日本社会を変えたわけではありません。

経済の成長もあれば、教育の普及もあり、社会制度や生活習慣の変化もありました。

しかし、映画が人々に夢を見せ、その夢が時代の変化と重なっていたことは、忘れたくないところです。

 

映画館で、僕たちは未来を観ていた

金髪。接吻。大きな家。広い道路。スポーツカー。美しい街並み。自由な恋愛。そして、海外旅行。

 

ひとつひとつは、映画の中に登場する、ごくありふれたものです。

しかし、かつての日本人にとって、それらは必ずしも身近なものではありませんでした。

映画館へ行き、暗闇のなかでスクリーンを見つめる。

そこには、日常とは違う世界が広がっていました。

もちろん、洋画は西洋の現実をそのまま映し出していたわけではありません。

ハリウッドが作り上げた夢もあれば、日本人が自分たちの願望を重ね合わせた夢もあったでしょう。

 

 

それでも、その夢は、少しずつ現実になっていきました。

映画の中で見た自動車が街を走るようになり、海外の風景が旅行先になり、かつては驚きだった恋愛の表現も、少しずつ身近になっていく。

振り返れば、僕たちは映画を観ながら、自分たちがこれから生きていく時代を想像していたのかもしれません。

 

洋画は、戦後日本にとって「未来」を映す窓だったのです。

だから僕たちは、映画館で外国映画を観ていたのではありません。

僕たちの未来を観ていたのです。

0630 起床 晴 昭和の日本人は、洋画に何を夢見たのか。金髪とハリウッドの夢。(前編)

血圧値 133/90/71 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 66.0キロ 運勢 The Hanged Man :R

 

昭和の映像を思い出すとき、「洋画」というジャンルを外すわけにはいきません。

戦前、そして戦後を通じて、日本人の西洋への憧れと羨望を映し出してきたもの。

それが、外国映画でした。

 

映画館の暗闇に浮かび上がるスクリーン。

そこには、見たこともない街並みが広がっていました。

広い道路を走る自動車。

大きな家、豪華なドレス、見たこともない食べ物。

そして、なんといっても、美女。

 

洋画といえば「金髪」。

昭和の日本人にとって、この言葉は特別な響きを持っていたのではないでしょうか。

今回は、そんなお話です。

 

Elizabeth Taylor, Grace Kelly, Audrey Hepburn, Marilyn Monroe: Ποια ήταν τα αγαπημένα τους αρώματα; - Queen.gr

 

☆

 

① マリリン・モンロー――「金髪」という文化

昭和の日本人が思い浮かべる金髪女性といえば、この人でしょう。

マリリン・モンロー。

 

Marilyn Monroe's 90th birthday: Have you seen these iconic photographs? - India Today

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Cinema 22 - Los caballeros las prefieren rubias

 

『紳士は金髪がお好き』

『七年目の浮気』

 

豊かな肉体、屈託のない笑顔、そして、あの独特の仕草。

金髪というだけではありません。

そこには、アメリカという国のイメージが重なっていました。

日本映画の女優とはどこか違う美しさ。

日本の日常生活では、なかなか出会えない女性像。

そして、恋愛や身体をめぐる、どこか開放的な空気。

 

もちろん、アメリカの女性がみんなモンローのようだったわけではありません。

それでも、映画の中の彼女は、戦後日本が憧れたアメリカの象徴のひとつでした。

金髪は、髪の色であると同時に、遠い異国への入り口でもあったのです。

 

② グレタ・ガルボ――神様みたいな美女

 

もう少し時代をさかのぼれば、グレタ・ガルボ。

 

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Greta Garbo-Annex3

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昭和初期から戦前にかけて、世界的な大スターとして知られた人です。

美しいというより、神秘的。

人間離れした、どこか手の届かない存在です。

映画スターというものが、まだ現在よりもはるかに遠い世界の住人だった時代。

スクリーンの向こう側には、現実とは別の世界が広がっていました。

 

③ イングリッド・バーグマン――理想の女性

 

Casablanca, Ingrid Bergman, 1942 #2 by Everett

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『カサブランカ』

『誰がために鐘は鳴る』

 

イングリッド・バーグマンも忘れられません。

知性と清潔感。

そして、その内側に秘められた情熱。

日本の女優でいえば、原節子を思い浮かべる人もいるでしょう。

もちろん、二人はそれぞれ異なる個性を持っています。

それでも、凛とした美しさと、簡単には手の届かない雰囲気という点では、どこか通じるものがあるように思います。

 

洋画の女優たちは、日本人が思い描く女性像を広げてくれたのかもしれません。

 

④ オードリー・ヘプバーン――昭和のお嫁さんランキング一位(笑)

 

昭和40年代以降になると、憧れの女性像も少し変わってきます。

金髪や肉体的な魅力だけではない。

上品で、知的で、軽やかで、都会的。

オードリー・ヘプバーンです。

 

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永遠の憧れ! オードリー・ヘップバーンのアイコンスタイルをキーワードで振り返り

 

『ローマの休日』を、いったい何度テレビで観たことでしょう。

ショートヘアに、シンプルなブラウス。

飾り立てなくても美しい。

そして、王女でありながら、ひとりの女性として街を歩き、恋をする。

あの映画には、華やかな世界への憧れと、自由に生きることへの憧れが同居しています。

昭和のお嫁さんランキング一位、とでも言いたくなりますね(笑)。

モンローの魅力とは違う、もうひとつの西洋女性の理想像でした。

 

⑤ エリザベス・テイラー――豊かさの象徴

 

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エリザベス・テイラー。

宝石、豪華な衣装、広い邸宅。

そして、圧倒的な美貌。

『クレオパトラ』などに見られる華麗な世界は、当時の日本人にとって、まさに別世界でした。

もちろん、ハリウッド映画の豪華さは、現実の西洋社会そのものではありません。

しかし、映画の中では、夢が現実のように映し出される。

豊かな暮らしとは、こういうものなのか。

世界には、こんなに美しいものがあるのか。

スクリーンは、まだ手の届かない生活を見せてくれました。

 

☆

 

映画作品も3つ、あげましょう。

 

① 『風と共に去りぬ』――映画そのものが別世界

 

 

女優だけではありません。

映画そのもののスケールにも、圧倒されたものです。

『風と共に去りぬ』。

ヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル。

壮大な物語、豪華な衣装、広大な風景。

 

戦争と社会の変動のなかで生きる人々を描いたこの作品は、単なる恋愛映画ではありません。

それでも、あの映像の豊かさは、観客を別世界へ連れていく力を持っていました。

 

日本映画にも名作はたくさんあります。

しかし、ハリウッド大作の物量とスケールは、また別の驚きを与えてくれました。

映画とは、こんな世界まで作り出せるのか。

そんな驚きもまた、洋画の魅力だったのでしょう。

 

⑦ 『ローマの休日』――海外旅行という夢

 

 

そして、やはり『ローマの休日』です。

ベスパ。

スペイン広場。

真実の口。

ローマの街を歩くアン王女と新聞記者ジョー。

 

映画を観た人のなかには、いつか自分もあの場所へ行ってみたいと思った人が、たくさんいたのではないでしょうか。

当時、海外旅行は誰もが気軽に楽しめるものではありませんでした。

外国へ行くこと自体が、まだ特別な夢だった時代です。

映画なら、その夢を先取りできる。

異国の街を歩き、見知らぬ人と出会い、思いがけない一日を過ごす。

『ローマの休日』は、恋愛映画であると同時に、海外旅行への憧れを育てる映画でもあったのです。

 

⑧ 『サウンド・オブ・ミュージック』――豊かな家族の風景

 

 

もうひとつ、昭和の洋画を語るうえで外せない作品があります。

『サウンド・オブ・ミュージック』。

 

美しい山々。

歌にあふれる暮らし。

子どもたちと大人たちの交流。

音楽と家族の物語。

そこには、豊かで、明るく、開放的な生活のイメージがありました。

もちろん、映画の舞台となるオーストリアの暮らしが、すべてあのようなものだったわけではありません。

それでも、映画の中に描かれた風景は、観客にひとつの理想を見せてくれました。

 

西洋とは、こんなに美しい世界なのか。

家族とは、こんなふうに歌い、笑い、暮らすこともできるのか。

高度経済成長期の日本人にとって、それは憧れの生活の一つだったのではないでしょうか。

 

☆

 

スクリーンの向こう側

金髪。

豪華なドレス。

広い家。

美しい街並み。

自由に旅する人々。

 

洋画が見せてくれたものは、映画の筋書きだけではありませんでした。

そこには、自分たちの暮らしとは違う、もうひとつの世界が広がっていました。

もちろん、映画は西洋の現実をそのまま映し出していたわけではありません。

ハリウッドが作り上げた夢もあれば、日本人が自分たちの願望を重ね合わせた夢もあったでしょう。

それでも、映画館の暗闇でスクリーンを見つめているあいだ、僕たちは日常を離れ、まだ知らない世界へ出かけることができたのです。

 

けれども、洋画が見せてくれた夢は、美しい女優や豪華な風景だけではありませんでした。

もうひとつ、忘れてはいけないものがあります。

それは「接吻」です。

なぜ、昭和の日本人にとって、洋画のキスシーンはあれほど特別なものだったのでしょうか。

次回は、そんなお話です。

0630 起床 晴 ダブル・トラブルの時代に来襲するものたちについて。

血圧値 120/78/74 酸素飽和度 98% 体温 36.3℃ 体重 67.1キロ 運勢 The Magician

 

『ゴジラ-0.0』が海外で先行公開されて、いろいろ賑やかな議論が高まっていますね。

決定的なネタバレは、さすがに自粛されているようですが。

 

 

ただ、ゴジラに加えて、もう一つの災厄が登場することは、ほぼ公然の秘密になっています。

つまり、今回の映画の大きな構造の一つが、「ダブル・トラブル」ということらしい。

ゴジラだけでも大変なのに、もう一つ来る。

怪獣映画としては、なかなか景気のいい話です。

しかし、これを現実のほうに引き寄せて考えてみると、ちょっと笑っていられなくなります。

 

日本では、高齢者の割合が人口の3割を超えそうな時代になりました。

高齢者が増えれば、当然、社会保障や介護、医療などに必要な人もお金も増えていきます。

「福祉」の問題ですね。

ところが、その福祉を支える側の人口は、むしろ減っている。

働く人が減っているのに、支えなければならない人は増えていく。

これは、大きな問題です。

 

そこへ、もう一つの怪獣がやってくる。

地震。

豪雨。

台風。

洪水。

土砂災害。

猛暑。

 

 

毎年のように、これまでとは少し違う規模の災害が起こるようになってきました。

そうなると今度は、「防災」にも人とお金が必要になります。

 

防災設備を整える。

老朽化したインフラを更新する。

避難所を整備する。

被災した道路や水道を復旧する。

そして、災害が起きれば復旧・復興にも莫大なお金がかかる。

 

つまり、

福祉にもお金が要る。

防災にもお金が要る。

福祉にも人が要る。

防災にも人が要る。

しかも、その両方を支える人口は減っていく。

 

一つだけなら、何とか対応できるかもしれない。

ところが、二つが同時に来る。

ここに「ダブル・トラブル」の本当の怖さがあります。

ゴジラが一匹来るだけでも大変なのに、もう一体が来る。

怪獣映画なら、それは映画的な誇張です。

でも、現実の社会では、こういうことが普通に起こる。

 

高齢化だけなら、高齢化対策を考えればいい。

災害だけなら、防災対策を考えればいい。

ところが実際には、高齢化の進む社会で、人口が減っている社会で、人手不足になっている社会で、インフラも老朽化していて、そこへ巨大災害がやってくる。

 

しかも、その災害を支える側も高齢化している。

これは、かなり複雑な怪獣です。

 

そう考えると、ゴジラ映画というのは、なかなか不思議なものです。

そもそも初代『ゴジラ』が、単なる怪獣映画ではなかったことは、よく知られています。

戦争や核兵器への恐怖。

人間が自分で作り出した巨大な力が、逆に人間へ襲いかかってくる。

その恐怖を、ゴジラという一匹の怪獣にした。

だからゴジラは、時代によって姿を変えてきました。

その時代の人間が恐れているものを、怪獣にしてしまう。

 

 

そう考えると、今回の「ダブル・トラブル」も、少し違って見えてきます。

ゴジラと、もう一つの災厄。

 

 

それは映画の中だけの話なのでしょうか。

僕には、少しだけ現実の日本と重なって見えます。

もちろん、映画と現実を単純に同一視するつもりはありません。

 

でも、「一つの問題に対処している間に、別の問題がやってくる」という構造は、確かに今の社会にあります。

しかも怖いのは、二つの問題が単純に足し算にならないことです。

 

高齢化と災害が重なれば、災害弱者の問題が出てくる。

人口減少と災害が重なれば、復旧を担う人手が足りなくなる。

インフラ老朽化と災害が重なれば、被害はさらに大きくなる。

一つの問題が、別の問題を増幅してしまう。

まるで怪獣同士が共闘しているようなものです。

ゴジラ一匹でも困るのに、「もう一体、来ます」と言われる。

 

『ゴジラ-0.0』最新予告映像が解禁! 長澤まさみさん、國村隼さん、前原滉さん、奥野瑛太さん、井之脇海さんの出演が決定!の画像-2

 

しかし、ここでふと思う。

いや、逆なのではないか。

映画が現実のメタファなのではなく、現実のほうが、映画のメタファになっているのではないか。

ゴジラが現実社会の恐怖を表しているのではない。

僕たちの現実そのものが、すでに「ゴジラが来襲する物語」のような構造になっている。

 

一難去って、また一難。

一匹倒したと思ったら、もう一匹現れる。

しかも、こちらの戦力は増えない。

むしろ減っている。

 

怪獣映画では、人間たちは最後に知恵を絞って怪獣に立ち向かいます。

現実の僕たちも、たぶん同じなのでしょう。

ただし現実には、映画のような「最後の必殺兵器」はありません。

あるのは、限られた人と、限られたお金と、限られた時間。

その中で、何を守り、何を残し、どうやって次の世代へ渡していくか。

それを考えなければならない。

 

そう考えると、「ダブル・トラブル」という言葉は、案外、今の時代にぴったりなのかもしれません。

ゴジラが来る。

そして、もう一体が来る。

映画なら、これは娯楽です。

でも現実では、「来るものは、来る」のです。

だからこそ、怪獣映画を見ながら、「これは何の比喩なんだろう」と考えるだけではなく、「いまの現実そのものが、何かの怪獣映画になってはいないか」と考えてみる。

そんな見方も、できるのではないでしょうか。