にこたろう読書室の日乗

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0630 起床 気分快 晴 川崎港町・鈴木町界隈巡行①【見て、歩いて、よろこぶもの】レコードと味の素の駅に降りてみる話。

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昨日のことですが、多摩川下流方面に出かけました。

この辺り、とても久しぶり。

 

京急大師線港町駅

僕は初めて降りる駅です。

 

全区間前面展望】京急大師線 京急川崎~小島新田 KeikyūDaishi Line KeikyūKawasaki~Kojimashinden -  YouTube

 

川崎駅から川崎大師へ行くための支線。

昔、1回だけ乗ったことがあるかなあ。

 

じつは、京浜急行電鉄京急)の発祥はこの大師線なのです。

川崎大師への参詣客輸送を目的に設立された鉄道が発展して、いまの京急になったのです。当時は、大師電気鉄道という社名でした。

なんと、こちらがレジェンドだったのですね!

 

毎年約300万人が初詣に訪れる川崎市の川崎大師。

参拝する人々を輸送するため、1899年に開業。京急川崎駅から川崎大師駅などを経て、小島新田駅までの約5kmを東西に結んでいます。

 

 

1899年(明治32年)1月21日、晴れ。
午前10時、1両の電車が満員の乗客を乗せて六郷橋から大師へ向けて走った。

 

これが大師線、つまり京急の記念すべき第1号車両です。

 

地図を引いて見ると、こんな感じ。

 

京浜急行・大師線

 

その最初の停車駅が、京急川崎駅から1.2kmの距離にあるこの港町駅です。

「みなとちょう」と読みます。

 

 

 

ホームには楽譜が描かれています。

港町十三番地

 

 

エントランスにはひばりさんのパネル。

 

戦前、この駅は「コロムビア前駅」と名乗っていました。

日本コロムビア川崎工場がこの駅すぐ北側にあったのです。

 

同工場は日本のレコード発祥の地としても知られています。

昭和時代のヒット曲の多くが、この工場でプレスされて全国に出荷されていたのでした。そのなかには、昭和32年に発売された美空ひばりさんのヒット曲「港町十三番地」がありました。

具体的な地名は歌詞に出てきませんが、今の港町5丁目付近を歌った曲といわれています。

当時の日本コロムビアの所在地は「九番地」ですが、ゴロが良いことから「十三番地」にしたとの説も。

 

港町駅北口を出ると、そこが日本コロムビア川崎工場の跡地です。いまは京急電鉄が建てた高層マンションが立ち並んでいます。

 

日本コロムビア(当時の日米蓄音機製造)川崎工場は、川崎に進出した近代産業の草分的存在として、明治42(1909)年4月に操業を開始し、同年5月には、国産第1号の円盤レコードを市場に送り出しました。

 

あくる年4月、日米蓄音機製造株式会社から発売された国産蓄音器の第1号はこんな感じ。

 

 

ニッポノホン 35型
製作者:NIPPONOPHONE COMPANY.LTD 日本蓄音器商会(現・日本コロムビア株式会社)
製作年:1910年代
サイズ:本体H:18.5cm, W:34cm,D:34cm(ホーン含H:76cm, W:34cm,D:34cm)  

 

朝顔形のラッパが付いている「ニッポノホン」全4機種が同社川崎工場で生産され、当時の平均月収である35円(機種によって25~50円)で販売されたそうです。

 

大正3(1914)年の「カチューシャの歌」、並木路子氏の「リンゴの唄」、古賀メロディー、美空ひばり氏のヒット曲、川崎出身の詩人佐藤惣之助氏作詞による「湖畔の宿」など、数え切れないほどの歌謡曲、邦楽、洋楽、クラシック音楽など、心に残る名曲がこの工場で作り出され、全国に広がっていったのです。

 

コロムビア川崎工場全景図


この全景図は、関東大震災後に再建された港町の川崎工場の絵で、永く市民に親しまれた「東洋一のネオン塔」が設置された、昭和6(1931)年頃のもの。

 

 

 

港町駅の隣駅となる鈴木駅は、味の素の創業者の名前をつけた駅で、鈴木駅になる前は味の素前駅という駅名だったといいます。

 

 

これは北口。

もとはコロムビア社の社駅だったわけですが、いまは3本の高層マンションの真下に出ます。

 

 

踏切からプラットホームをチェックして、多摩川の土手のほうに廻ってみます。

面白いものがあるのです。

 

 

土手の上から元のコロムビアの敷地方面を見た構図。

この土手を後ろ側の下流側に少し歩くと。

なにやら不思議な構造物がありますね。

 

 

多摩川の対岸は六郷土手です。

もう最下流域なので川幅が広い。

あの巨大石造物はなんだろう。

 

 

水門みたいです。てっぺんに変な形のオブジェが載っている。

 

 

川崎河港水門(国登録有形文化財

 

第一次世界大戦による好景気の中、川崎市は足りなくなった工場用地の拡大を図る運河・港湾計画を立てた。川崎河港水門は、この計画の一環として将来の発展に備えるべく、当時の多摩川改修事務所長であった内務技師・金森誠之(かなもりしげゆき)氏の設計により、大正15(1926)年11月に着工、昭和3(1928)年3月に完成した。

2本のタワーと、タワーをつなぐ梁、ゲートによって構成され、タワーの頭頂部には当時の川崎の名産品のブドウ・梨・桃等をあしらった装飾が施されている。梁部分には、現在は残っていないものの、エジプト様式の船のレリーフがあった。

現在でも、千葉方面からの砂利の陸揚げ施設として使用されている。
運河・河港計画は、現在の川崎区を対角線状に横切る、幅員33~40mの大運河計画として、内務省の都市計画事業の認可を受けたが、敷地内に住宅や工場が建てられ、戦局の悪化による経済への影響などもあり、昭和18(1943)年に廃止された。

 

次号につづく。