にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0600 起床 気分快 晴 「食」にこだわる荷風先生の生きざまについて。網羅的ではないけど、いくつかご紹介。

血圧値 123/81/76 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 67.6キロ

 

永井荷風の父親の久一郎は、プリンストン大学ボストン大学への留学経験もあるエリート官僚で内務省衛生局に勤務しており、後に日本郵船天下りしています。

 

 

1903年、荷風は父の意向で実業を学ぶため渡米し、1907年までニューヨークやワシントンなどでフランス語を修めるかたわら、日本大使館横浜正金銀行にも勤めています。

しかし、銀行務めとアメリカになじめず、父親のコネを使ってフランスに渡り、詩人・評論家の上田敏とも交流を持ちます。

 

日本に帰ってからの荷風は、父の意向に反して、高等遊民というか高等帰朝者として、「放蕩」な生活を続けます。なににも縛られたくない、というか。

 

彼は戦前まで、父親の遺産の株式の配当や預金の利息で生活し、お金を稼ぐこととは無縁の生活を送っていたようです。

 

まあ、のんきなものですね。

その後、小説家・文学者として、そっちのほうで世間に認められるようになる。

 

1910年には森鴎外上田敏の推薦で慶応大学教授となり「三田文学」を創刊するなどなかなかの活躍をしています。

 

そういう能力というか、資質はあったわけですね。

あいかわらず、こんな生活!

 

永井荷風と共に歩く|武埜 山水

 

荷風先生の「お食事」について、触れておきます。

先生にとって、食べることは生きること。

 

 

「ものを食べる」というテーマ描写も、作品中によくみられるし。

 

「濹東綺譚」で、銀座に飽きた老作家が、玉の井の銘酒屋の女・お雪と氷白玉を食べる場面とか。

 

氷屋の男がお待遠うと云つて誂へたものを持つて来た。


「あなた。白玉なら食べるんでせう。今日はわたしがおごるわ。」
「よく覚えてゐるなア。そんな事………。」
「覚えてるわよ。実があるでせう。だからもう、そこら中浮気するの、お止しなさい。」
「此処へ来ないと、どこか、他の家へ行くと思つてるのか。仕様がない。」
「男は大概さうだもの。」
「白玉が咽喉へつかへるよ。食べる中だけ仲好くしやうや。」
「知らない。」とお雪はわざと荒々しく匙の音をさせて山盛にした氷を突崩した。

 

夏の間、毎晩のように彼女の家を「散歩の休憩所」としているうちに、お雪は主人公に心を許して、「おかみさんにしてくれない」と言ってくれた。しかし、これ以上深い仲になれば、結局彼女を悲しませることがわかっているから、もう別れなければいけないと思っているのです。

 

 

泣けるなあ。

じいさんで、独りよがりで、わがままなだけなんだけど。

白玉で誤嚥したら危ないし。

 

 

荷風の生きざまの特徴として、食べ物にうるさい、というかこだわりとセンスが感じられます。

たとえば、行きつけの店とか。

 

網羅的ではないけど、いくつかご紹介。

 

荷風はストリップ鑑賞の為に頻繁に浅草を訪れたが、その際には尾張でかしわ南蛮を毎回注文した。

 

②浅草では他には洋食屋のアリゾナが行きつけの店だった。

とくにチキンレバークレオールがお気に入り。

 

③さらに浅草ではどぜうの飯田屋をひいきにしていたらしい。

 

銀座では鰻の竹葉亭がお気に入り。

 

新橋のすき焼き屋今朝などにも通った。

 

市川市に引っ越してからは、毎日馴染みの大黒家でお銚子一本呑みながら、かつ丼を食べるのが楽しみだった。亡くなる当日まで。

 

 

このリストの中では、②は一度閉店しお店はなくなったけど、息子さんが新たに復活させたお店に行ったことがあります。

 

0600 起床 気分快 晴 【見て、歩いて、よろこぶもの】ある忙しい一日③ 浅草を通って帰ります。荷風のもうひとつのマイダイナーが奇跡の復活をしましたよ。 - にこたろう読書室の日乗

 

⑥は建物はありますが、お店はもう営業していません。

 

0600 起床 気分快 晴 【見て、歩いて、よろこぶもの】ある忙しい一日➁ 市川・本八幡界隈へ。荷風ロードを歩いてみよう。 - にこたろう読書室の日乗

 

ということで、先日、⑤の新橋のすき焼き屋さん、『今朝』に行って来ましたよ。

 

これについては、尺が長くなりましたので、以下次号。