血圧値 127/84/86 酸素飽和度 98% 体温 36.5℃ 体重 67.8キロ
昨日は僕が最期に教えた卒業生の大ちゃんが進学した学校の文化祭を観るために、つくば学園都市に行きました。
僕は彼らの最後の学年末考査の一週間前くらいのタイミングで脳幹出血となり、学校から消えることになりました。
僕もびっくりだけど、彼らにもご迷惑をおかけしたなあ。
この仕事は、こういうアクシデントの時、厄介ですよねえ。
0600 起床 気分快 晴 今日は脳のMR Iと血液検査に行きます。退院後、4ヶ月。僕の場合、お医者さんも驚くほど「奇跡的に軽く済んでいる」らしいです。 - にこたろう読書室の日乗
幸い授業はほぼ終了していて、試験問題も作ってあったから、最悪の事態は避けられたけど。
というわけで、皆さんが無事に進級・卒業して、進路も達成できたことは、僕にとってもとても嬉しく、ほっとしたことでした。
さて、「つくば」の話ですが。
この電車が開通してから、ほんと便利になりましたねえ。
それでも目黒から行くと2時間ちょい、かな。
つくばは凄い久しぶり。3回目かな。
最初に行ったのは、なんといってもつくば万博の時。
もう38年くらい前の話。
勤務校の遠足の引率でバスで行ったんですよ。
昭和60年(1985年)3月17日~9月16日(184日間)
コンパニオン!
みなさん、お元気かな。
巨大な野外テレビ。ジャンボトロン。
この下に、うちの生徒は集合したんじゃなかったかな。
☆
というわけで、ポップコーンの屋台で一所懸命に働く大ちゃんにも会えて、親御さんやお祖父ちゃんお祖母ちゃん、アメリカの日本人学校時代の担任の先生とか、たくさんの人にお会いして、お昼過ぎにつくばをあとにしました。
こうやって、毎日誰か新しい人と出会って、お話をするのは、認知症予防にも、脳出血のリハビリにもよろしいのではないかしら。
そういうわけで、せっかく外に出ているので、帰りはTXから地下鉄を乗り継いで、「六本木」に出ます。
六本木1丁目駅。
なだれ坂を登ります。
今はこの辺りは大開発されて、昔の面影が分かりにくいのですが。
今日の目的のその1。
これは開発前の、初代看板。
永井荷風の『濹東綺譚』で、荷風自身とみられる主人公大江匡が向島玉の井〝お雪〟のところから帰る道すがら職務質問されて。
巡査「住所は」
大江「麻布区御箪笥町1丁目6番地」
巡査「職業は」
大江「何もしていません」
というやりとりがある。
物語執筆当時、荷風の実際の住まい「偏奇館」は、御箪笥町に隣接する麻布市兵衛町一丁目(現港区六本木一丁目)にあった。
ペンキ塗りの西洋館だったため「偏奇(へんき)館」と名付けられたこの砦のような家敷。
大正9年(1920)5月23日に築地から転居してから、東京大空襲で焼け落ちる昭和20(1945)年3月10日までの25年間、荷風は隠れ家としてここに住んでいます。
目的、その2。
サウジアラビア大使館の向かいにある泉通りの入口に碑が建っています。
大正9年から昭和元年まで、この地にホテルが建ち、近くに居を構えていた永井荷風もしばしば利用していたそうです。
「断腸亭日乗」には山形ホテルが登場します。
荷風はここを食事、接客のために頻繁に利用しました。
当時、山形ホテルの北側は崖となっており、間に小さな谷間を挟んでその対岸に偏奇館が建っていました。
山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲(大正4年ロンドン生れ、平成8年没)だそうです。
今日は荷風に関わるこの二つの場所の雰囲気と、周囲の地形的特徴を体感するのが目的です。
『断腸亭日乗』昭和7年(1932)3月4日の記事に、荷風が風邪で寝ていて暇なので、偏奇館から谷間を経て山形ホテルが見える窓からの眺めをスケッチしています。
このスケッチから偏奇館と山形ホテルとの位置関係がよくわかりますね。
開発される前は、こんな感じ。
けっこう深い谷間があったんですね。
今はサントリーホールがあるアークヒルズも、こんな感じだったようです。
荷風の屋敷についての考察はまた別の機会に。
この絵図、良いですね。
ご参照。
荷風先生はすべてお見通し 永井荷風の慧眼 | 東京マケノモン新聞[WEB版]
さて、地下鉄の駅に戻るために道源寺坂を下ってサントリーホールのカラヤン広場の脇を通ったら、やたら人だかりがしてて、覗いてみると、「赤坂蚤の市」。
ここも、おとなの学園祭、みたいな雰囲気。
お昼食べてなかったから、広場の2階のドイツビアパブに、思わず吸い込まれました🎵
「Good Friends」は、今日は一緒じゃないよ。
ウィーンなら「シュニッツェル」ですね。
「ニユートーキョー」のやつはちょっと別格。
というわけで、今日はこれでおしまい。