血圧値 128/83/75 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 69.3キロ
静郎(しずお)伯父の写真です。
実家の仏壇のなかにありました。
思いつく限り、伯父の写真はこれ一枚しかありません。
目鼻立ちがお祖母ちゃんに似ています。
僕にはあまり似ていないな。
陸軍の寒冷地仕様の軍装ですね。
防寒帽、かぶってるし。
満州に出征したのですからね。
戦地から家族あてに、軍事郵便で送られたのかな。
裏書はこうです。
昭和18年3月 22歳
この年、昭和18年(1943年)は、どういう状況だったのでしょう。
2月に、ガダルカナル島から日本軍撤退。 スターリングラード攻防戦でソ連軍(赤軍)に包囲されていたドイツ第6軍が降伏。
4月には、 前線視察中の山本五十六海軍大将・連合艦隊司令長官が搭乗する一式陸攻が米軍機の攻撃を受け、長官戦死(海軍甲事件)。
4月30日、陸軍大閲兵式。
5月、 米領アリューシャン列島のアッツ島で日本海軍の守備隊が玉砕(アッツ島の戦い)。
6月、日本海軍の戦艦「陸奥」が呉港沖柱島泊地に停泊中、爆発事故を起こし沈没。
あきらかに戦況は日本軍にとって厳しい方向に向きつつありますが、伯父はどういう気持ちで、この写真を母のもとに送ったのでしょうか。
もう、実家も仏壇もありません。
墓じまいをしますから、お墓もいずれなくなります。
もともと、伯父さんのお骨が、お墓の中にあるわけでは、ありません。
たぶん現ロシア領の、異国の荒野の果てのどこかに、眠っていることでしょう。
誰が訪れることもなく。
そういうことは、この世界で、いくらもあることだと思います。
大東亜戦争・プーチン戦争・東北大震災・マウイ島の山火事・箱根の土石流。
突発する悲劇で命を失い、遺骨すら見つけてもらえない人生。その家族、縁者。
思う気持ちは、同じです。
生きるということに付随する、哀しみの側面です。
受け止めて、寄り添っていく、というのが残されて生きるものたちの、果たすべき責任なのかもしれません。
さて、どこから探索を始めましょうか。
お祖母ちゃんは伯父の軍人恩給を受給していましたから、そちらの役所には最低限の情報があるはずです。
旧軍人退職当時の本籍地の都道府県(援護課・福祉課等の旧軍人援護を担当する課)が探索目標となります。
面白いことに陸軍と海軍では所轄が違います。
海軍は厚生労働省で一括、陸軍は上記の通り出生地の都道府県です。
なんでだろう。
軍人の数が偏ってるのかな。恩給支給事務作業の問題?
チャットくんの意見はこんな感じ。
旧日本軍の陸軍と海軍の軍人恩給の支給数について詳細な情報は限られており、時期や戦局によっても異なるため、具体的な比較が難しいかもしれません。しかしながら、一般的な傾向を述べることは可能です。
第二次世界大戦前後、陸軍と海軍の軍人恩給の支給数には違いがあったと考えられています。陸軍は国土の防衛を主に担当しており、その兵力は比較的大きかったため、陸軍の軍人恩給の支給数も多かったとされています。一方で、海軍は海洋進出と制海権確保に主に注力しており、その兵力は陸軍よりも少なかったため、海軍の軍人恩給の支給数も相対的に少なかった可能性があります。
ただし、これらの情報は歴史的文献や研究に基づいて推測されたものであり、正確な数値や詳細な比較が難しいことを考慮してください。また、恩給制度自体も時期や戦局によって変化したことがあり、一概には語れない部分もあるでしょう。
あと、実家の鴨居にはおおきな賞状が飾ってありました。
「勲八等白色桐葉章 勲記」。
銀色の勲章と杯もあったなあ。
兵隊さんに行った人は、皆さん貰えるものです。
いま、どこにあるのかな?(全然、覚えがない)
あと、御霊が靖国神社に祀られていますので、そちらにもデータがあるはずです。
都庁と靖国。
まずは、ここに行ってみましょう。