にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0600 起床 気分快 曇 共同で共通の虚構を信じるための儀式。古代アンデス文明の神殿の造り方と、日本古代の遷都、遷宮の共通点について。

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南米のペルーに、かつてアンデス文明という古代文明が栄えました。

大昔、アジア大陸からアリューシャン半島(ていうか山脈)が地続きだったころ、アメリカ大陸に初めて渡ったモンゴロイドの子孫たちが造った文明。

私たち日本人と祖先を同じくする人々。

 

どこか懐かしい感じがしますね。

 

昔、クスコからマチュピチュ、ナスカ方面を観て歩いたことがあります。

あの「在ペルー日本大使公邸人質事件」の直前のころ。

 

クスコの町。標高が3000mくらいあります。
首都リマが海抜0mで、そこからジェット機で一気に上がります。

飛行機のドアが開くと、ガーンと高山病ショック!

ここはインカ帝国時代の古い都です。

宿屋でコカ茶を飲んで、一休み。

(このお茶、日本には持ち帰れません。理由はご想像に任せます!)

 

クスコでは、スペイン支配時代の建物の地下にインカ時代の石壁が埋まっています。

古代文明の上に、絶対主義的侵略の遺物が乗っかっているわけです。

これはメキシコのアステカ文明も同じね。

 

クスコの町の高台の丘の上にある、インカ文明の砦の遺跡。

サクサイワマン Saqsaywaman。

Google マップ

 

クスコの町の、いたるところに見られるインカ時代の石積み。

剃刀の刃さえ通らない、見事な密着感。

インカ人は鉄器を持たなかったのに(要するにまだ、青銅器時代)、こういう驚くべき精巧で高度な技術を持ってました。

 

町中には、こういう風景。耳の長い動物ね。

 

4000mの峠をディーゼル列車で越えてマチュピチュに登ったり、チチカカ湖で葦の船に乗ったり、海岸に降りてナスカの地上絵を見たり。

 

1996年(平成8年)12月17日夜、ペルーの首都リマの日本大使公邸では、青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた。午後8時過ぎ、当時空き家となっていた大使公邸の隣家の塀が爆破され、覆面をした一団がレセプション会場に乱入し、制圧・占拠した。

 

もう27年も前になるのか。これも懐かしいなあ。

 

アンデス文明と言えば「インカ帝国」が有名ですが、これは16世紀ですからかなり新しい。その起源はずっと古くて、アンデス地域に人類が到着した紀元前13000年から。

その後16世紀にスペイン人がインカ帝国を征服するまでの約1万50000年にわたって、数々の文化が栄えています。これらを総称して「アンデス」文明と呼ぶのです。

 

アンデス文明で、最初に神殿が造られたのは、クントゥルワシであろうと言われています。

 

概要は、こんな感じ。

 

クントゥルワシ遺跡(Kuntur Wasi)は、ペルー北部に位置する重要な考古遺跡です。この遺跡は、紀元前7世紀から紀元前1世紀にかけてのチャヴィン文化やモチェ文化の影響を受けたアンデス文明の一部とされています。

 

クントゥルワシ遺跡は、主に祭祀や儀式のために使われたと考えられる複合的な構造を持っています。中心部には高台に築かれた神殿や祭祀広場があり、周囲には住居や倉庫、墓地が広がっています。遺跡からは、彩色された陶器や金属製品、宝石、彫刻などの貴重な遺物が発見されており、クントゥルワシの重要性を示しています。

 

クントゥルワシ遺跡は、初期アンデス文明の神聖な場所としての役割や、経済的・社会的な活動の中心地であった可能性があります。遺跡の詳細な研究は進行中であり、アンデス文明の理解に貢献しています。

 

 

最初に小さな神殿が造られて、しばらくすると同じような大きさで、その上に建て直す。

つまり、古い神殿の上に、新しい神殿が載っているかたち。

 

これを繰り返しながら、しだいに神殿の規模が大きくなっていく。

 

伊勢神宮は、隣に移すのですが、ここでは、いわば上に積み重ねていく「遷宮」。

興味深いですね。

 

ここで面白いのは、これを造った人々。造らせた人ではなくて、実際に労働をした人々です。嫌々やらされたのではない、らしい。

やる気や、達成感。食糧の支給などのようなある程度の報酬もあったかも知れません。

 

これはエジプトのピラミッド建設についても、最新の知見は同じです。

 

昔はファラオという絶対権力者の支配のもとに、奴隷が鞭打たれながらこれを造らされた、と解釈されました。

古代エジプトの社会は農耕社会であり、農業の季節に応じて人々が働くことが一般的でした。ピラミッド建設に従事した労働者は、多くが農閑期に雇われており、一時的な労働力として参加していたと考えられています。

実際の証拠としては、ピラミッドの建設に関連する文書や絵画が残されています。これらの資料からは、労働者たちが組織的に配置され、食料や賃金が支給されていたことが示されています。また、ピラミッド建築に従事した労働者の墓地や宿営地の発掘調査も行われており、彼らの生活状況や社会的地位についての情報が得られています。

 

一部の奴隷がピラミッド建設に関与していた可能性は否定できませんが、一般的な労働者の大部分は自発的な労働契約のもとで働いていたと考えられています。

エジプトのピラミッド建築は、集団労働や社会の協力のもとで成し遂げられた驚異的な技術的偉業であり、労働者たちは社会的な認識や報酬を受けていたという見解が現在の学会の一般的な見解です。

 

同じことが、古代アンデスの神殿建造にも言えるらしい。

 

「神殿」という共通の価値観や理想に向けて、自主的に労働に参加し、精神的な満足さえ受ける。それが、社会の、経済的・文化的なさらなる成長を促す。

 

つまり、逆なのではないか。

 

農耕社会が高度に発達し、余剰生産物が増え、神官や王族という支配階級が成長してはじめて、神殿や宗教システムなどの高次の文明アイテムが生まれるのではない。

そういう「神殿」を庶民が共同で、率先して造り上げることに積極的・自発的に参加することを通じて、つまり先に行動があって、その結果として高次な社会システムが成長できるのではないか。

 

そういう解釈に、昨今の考古学・人類学は視点を変えつつあるのではないか、と思われます。

 

日本古代の「遷都」、伊勢の「遷宮」、アンデス文明の「神殿の建て替え」。

 

これらの現象には、おそらく共通する意味があるのです。

それは、人類が共同で共通の虚構を信じるための儀式

 

共同体の構成員の気もちや意識を一つに向かわせて、組織が新たな原動力をえるための、誘導と動機づけの儀式

 

そういうものなのだと、思うのです。