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一昨日の話です。
学校時代からの友人Kamiyaくんの運転で、三浦半島を訪ねました。
TOYOTAの新車でむかえに来てくれて、目黒通り・第3京浜・横浜新道・横横道路、と乗り継いで、大楠山越えて、なんと1時間ちょいで三浦半島中部の横須賀芦名・西海岸に800年以上の歴史を有する浄土宗寺院、浄楽寺の門前に着いてしまいました。
早いなあ。
国道134号線沿いのお寺の入口。
前島密の像が建っている。kamiyaくんがなにやら後部座席をチェックしていますね!
このお寺、なんと和田義盛夫妻発願の運慶作の仏像(いずれも国指定重要文化財)が5体安置されている。
さらに、近代郵政制度の創始者である前島密翁夫妻の墓所でもある。
今回は、この運慶仏を予約拝観します。
浄楽寺は、横須賀市芦名(あしな)にある浄土宗の寺院で、正式には「金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺と」言います。
文治5年(1189年)に和田義盛が建立した寺と伝えられていますが、院号からも分かるように、源頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために創建された鎌倉にあった勝長寿院を、この地に移したという古文書も残っているそうです(伝承)。
和田義盛が建立した七阿弥陀堂の1つであると言われています。のちに、鎌倉光明寺の僧寂恵(じゃっけい、1305年没)が中興し、今に至ります。
源頼朝が父義朝の霊を慰めるために創建した勝長寿院は謎の多い寺院で、鶴岡八幡宮寺、永福寺とともに三大寺院として知られていますが、その実態はよく分かりません。
勝長寿院は度重なる火災に遭い、16世紀前期頃に廃寺となったと考えられています。現在は周辺の宅地化が進んだため、遺構はほとんど残っておらず、雪ノ下4丁目6ー20付近に「勝長寿院旧蹟」の石碑と供養塔があるのみです。
☆
1130(治承4)年に源平の争いが起こり、飢饉や疫病によってやせ細った人たちは仏教に救いを求めていました。
浄楽寺に現存する阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)、不動明王立像、毘沙門天立像は、1189(文治5)年に、和田義盛が、当代随一の仏師と言われていた運慶に発注したものです。
運慶(とその工房スタッフ10人)は、発注者の和田義盛の思いや民衆の願いを受け止めて人びとが少しでも苦しみから解放されるように仏像を作りました。
(イメージです)
浄楽寺の運慶の仏像は、大正15年に阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)のみ国指定の重要文化財となりました。
その後、昭和34年(僕が生まれた年!)仏像研究の久野健氏による調査が行われ、毘沙門天の胎内から木造月輪形の銘札が発見され、続いて不動明王の胎内にも同様の銘札が発見されました。
三尊の胎内には同様の銘札は確認できませんでしたが、胎内に同様の筆跡で陀羅尼経が墨書きされていたことで5体全てが運慶作の仏像であることが確実になりました。
運慶は、73歳で亡くなるまでに31体の仏像を彫ったと云われていますが、真作とされるものは18体(現状)で、そのうちの5体が三浦半島の大楠山の麓にある浄楽寺の収蔵庫に安置されているということは、ある意味奇跡ですね。
運慶の「阿弥陀三尊」のセットはこれが唯一。
不動明王と毘沙門天を配置する5体の世界観というのもユニークですね。
はじめからこういう構想だったのだろうか?
今回は、かなりたくさんのかたがたが、拝観にみえていました。
(クラファンによる収蔵庫改修のため7月からしばらくの間、この仏様はここでは拝めません)
収蔵庫でお話を聞き、灯りを落として、蝋燭の灯明の光の中で「念仏」を唱える体験をさせていただきました。
(イメージです)
全ての衆生を仏にしてみせるという阿弥陀仏の本願における18番目の願い(第十八願)の中には、「南無阿弥陀仏をとなえる者を極楽浄土に生まれさせて成仏させる」という念仏往生願があり、阿弥陀仏の浄土「極楽、安楽国」に、念仏「南無阿弥陀仏」をとなえることで往生できるとする専修念仏を説きます。
僕は禅宗徒なので、これは珍しい体験。
境内の墓所の一角に、前島御夫妻のお墓があります。
前島密は郵便事業の基礎を確立した「郵便の父」として広く知られるほか、鉄道、海運、新聞、教育など多方面に功績を残した人物でした。
晩年は浄楽寺の敷地内に別荘を作り「如々庵(じょじょあん)」と名づけて暮らしました。大正八年にこの地で85歳て亡くなりました。
そろそろお昼の時間になりますので、ここから南進して、三浦三崎の城ヶ島に向かいます。