血圧値 131/88/71 酸素飽和度 99% 体温 36.3℃ 体重 68.8キロ
浄楽寺から三崎港まで一気に南下して、海南神社へ。
ここは三浦半島の総鎮守。
三崎の昭和感満載の町中に鎮座しています。
源頼朝も訪れた神社で、境内の樹齢800年の大銀杏は頼朝の手植えと伝えられています。
七夕飾りと夏越大祓の茅の輪が奉製されています。
疫病退散や穢れを祓う茅の輪をくぐり、無病息災を祈る大祓式は明日の6月30日16時からだそうです。
(イメージです)
Kamiyaくんは、行く先々のお寺や神社で御朱印をもらってます。
かなりの数の御朱印が手元にあるそうです。
城ヶ島へ渡って、猫ちゃんのいるお店でお昼を食べます。
「磯料理 魚のかねあ」
三浦半島 城ヶ島 磯料理 魚のかねあ | 三崎港に水揚げされた、脂ののったマグロ・相模湾湘南しらす・朝獲れ地魚をご用意しております。
僕はいつも「かねあ」さん。
前回来たのは4月のことでした。
0400 起床 気分快 晴 三浦荒崎巡行【見て・歩いて・よろこぶもの】⑫その1 まずは、いつも行く、看板ネコのお店に寄りましょう。 - にこたろう読書室の日乗
ご当地グルメである三崎のマグロをはじめ、三崎港で水揚げされた鮮度抜群の魚介類が楽しめる磯料理の名店です。
看板メニューである中トロ定食をはじめ、獲れたてのマグロはどれも口の中に入れた瞬間にとろける美味しさだとクチコミでも話題です。
他にも生しらすなど三崎名物グルメが並んでおり、魚好きにはたまらないラインナップです。
看板猫がお一人、まだ入院中でとても心配。
(イメージです)
この日は朝捕れの生しらすは不漁でなかったんですが、釜揚げしらすもとても美味しいのです。
なかなかのご飯の量なので、普通の人は「小盛」が良いかも。
凄く申し訳ないのですが、ビールを吞んでしまいました。
Kamiyaくんはノンアル。
シチリアン・ディナーのとき、たくさん呑んでください!
食後、磯伝いで馬の背洞門まで行きます。
凄い暑い!
上に登ってはいけません!
磯を歩くのは大変ですが、面白い。
帰りは尾根筋に登ります。
「うらりマルシェ」(市場です)にちょっと寄ってから、逗子に戻ります。
森戸海岸の近くのホテルに泊まって、シチリア料理の名店「ピスカリア Piscaria」でディナーです。
今回、これが主たる目的なのです。(運慶もとても良かったけど)
途中、名勝「立石」に寄りました。
浮世絵のバックになりそうな風景。
(イメージです)
僕はこういう本を持っています。
『三浦古尋録』
三浦の古志。『新編相模国風土記稿』よりもさらに古い『三浦古尋録』は加藤山寿が文化10年(1813)に書いた三浦の各村別の地理・習俗・文化の記録です。風土記のようなもの。竜崎攀鯉が文化14年にさらに追補・校訂しています。
今から約210年ほど前の三浦半島の地誌をまとめたこの本は、江戸時代のこの地域の様子を知る上で貴重な一冊です。
本は大変有名なのですが、著者自身のこととなると、わからないことがたくさんあります。
山寿は、西浦賀町在住の加藤勇さんの祖先に当たる人で、江戸時代後期の文化年間(1804~1818)に活躍したことは明らかですが、誕生した日も、没年も不明で、墓碑も確定できません。ただ、その輝かしい業績だけが今日も生き続けています。
加藤家は「淡路屋」の屋号でも知られるように、江戸時代に淡路から移ってきた豪商で、上方方面から廻船で運ばれてくる塩、酒、日用雑貨などを扱って、手広く商売を行ってきました。
当主は代々、小兵衛とか勇助を世襲名としてきましたので、山寿という名前は今でいうペンネームに当たり、加藤勇助(雄助)が本名でした。
『三浦古尋録』の後書きによれば、文化2年(1805)の秋、山寿は家業を子の常五郎にゆだね、自分は西浦賀の高坂から吉井へ抜ける「花水」と呼ばれる里に移り、文筆生活一筋の日々を送るようにしたと記されています。
三浦を訪ねる時に、とても興味深い情報をこの本から得ることができます。
『三浦古尋録』の初めの方に「三浦の何々」と記されている箇所があります。
「三浦七石」というところに「秋谷浦立石」とあるのが、この石ですね。
本文の「秋谷村」の項目には、下記のように書かれています。
本文の頭注に「此処(ここ)ノ浜ニ立石ト云有(いうあり)、海中高数十丈有…」とあります。一丈は約三・〇三メートルですから30メートルを超える程の石柱と言えましょう。
なお、この地は「大崩(おおくずれ)」とも言われています。
さて、立石を観ましたので、これから「うみのホテル」に向かいます。
左下の城ヶ島から立石を経由して左上の森戸海岸のあたりに向かいます。