にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0600 起床 気分快 晴 「春の岬」、あるいは最終兵器「短歌」について。「遺書としての100首・自註」みたいなものは、書き遺しておいても良いかも。

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昨日の下部消化管内視鏡検査、無事でした🎵

10年前見つけて経過観察になったポリープ、プラス3つあるけど、切除は次回にということに。経過観察、継続。

 

取り敢えず火急の処置が必要なものではない、とのこと。

一安心、でした。

 

さて。今日は文学系のお話。

 

 

読めますか?

達筆。

 

春の岬 旅のをはりの鴎どり 浮きつつ遠くなりにけるかも

 

三好達治「春の岬」 静岡・南伊豆町石廊崎

 

 

太平洋につつまれる崖に立つと、全身青く染まりそうだ。光る海に巨岩がならぶ。船が行きかう。鳥の群れが白い斑点みたいにゆれている。

伊豆半島の最南端――。この絶景を詩人は波の上から眺めている。そして、短歌のような詩が生まれた。

 

昭和2年4月のこと。

 

湯ケ島で療養中の梶井基次郎を見舞った帰りだった。大声をあげ、両手で握手した。友は、まだ元気だった。下田から沼津へ。汽船は、みるみる岬から遠ざかり...

 

この作品を、読者として初めて読んだ場合。

 

春の岬。

旅のをはりの鴎どり。

浮きつつ遠く……

 

ここまで読んだとして、読者はこの文章が、散文詩なのか、そうでない何かなのか、判別がつきません。ちょっと文語・旧かな調だから怪しいかな、くらいの感じ。

 

そして、エンディング。

衝撃の、「なりにけるかも」!

 

ガッタンと舞台がひっくり返る。

いきなり斎藤茂吉

 

これ、形式は「短歌」なんですよね。

 

5(実際は6)・7・5・7・7

 

しかも茂吉的アララギ正統派文体。

初句が字余り。

 

三好さん、どうしたんだろう。

短歌形式について、なにか思うところがあったのかな。

「かもめ」と「けるかも」が押韻しているけど。

そういう問題じゃないか。

 

もちろん、この「一首」、なかなかいい感じで短歌として成立していると思います。

 

西欧風の明るい陽光のなかの、日本古来の短詩型のたゆたい。

照れてるみたいだし、憧れているみたいだし。

なかなかいいセンスだと思う。

 

もうひとつ、詩集『南窗集』の中の「土」という詩。

 

蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ

 

これなんかも、ほとんど「俳句」として、成り立っていますね。

 

蟻→蝶の羽→ヨットの帆→大海原のように輝く地面

 

ぎゅーんとズームアウトする、鮮やかな視覚映像的処理。

なかなか、短詩型の勘所を捕まえていますよねえ。

とくに直喩の意識的・確信犯的な用法。

 

 

僕はこのブログのテーマとして、ほとんどこの「短歌」というものに触れてきていません。

ある意味、「最終兵器」だからです。

 

ブログの毎日更新を自分に課している人は、定番の長い帯みたいなコンテンツを持っているほうが、たぶん楽でしょう。

 

ただこれは、今の僕にとって、ちょっと鬼門というか、タブーみたいな感じがあるんだよねえ。

 

精神の終活、というテーマに関して言えば、僕にとって短歌となんであったか問題は、避けては通れないんだけど。

 

「自作の一首鑑賞とエッセイ」、というやつなら数百回のシリーズが書けるんだけれど、そんなもの需要なんて無いからなあ。

よっぽどコンテンツが枯渇したら、考えようかな。

遺書としてね。ハイリゲンシュタットの遺書、みたいな。

 

僕がこれまで、ていうか昔、紙で出した歌集はこの3つ。

 

 

『猫、1・2・3・4』は、もうこの地上にはほとんどないでしょう。

『猫、拾遺』はもともと激レア。

『愛の挨拶』は、多少残部を僕が持ってます。希望されれば差し上げるけど、まあいらないよね! いずれ整理しよう。

 

短詩型って「解釈と鑑賞」的な不思議な習慣があって、自由詩や散文とはちょっと違っているよね。

つまり、読者が「読み」に積極的に関与しないと、「作品」が整わない、みたいな。

呼応(歌謡)の文学、みたいな発祥をしたからかも。

 

ちょっとしゃべりすぎてきたから、この件は、今日はこれでおしまい。

 

そうか、「遺書としての100首・自註」みたいなものは、書き遺しておいても良いかも。