血圧値 123/76/81 酸素飽和度 98% 体温 36.0℃ 体重 66.0キロ
昨日の下部消化管内視鏡検査、無事でした🎵
10年前見つけて経過観察になったポリープ、プラス3つあるけど、切除は次回にということに。経過観察、継続。
取り敢えず火急の処置が必要なものではない、とのこと。
一安心、でした。
さて。今日は文学系のお話。
読めますか?
達筆。
春の岬 旅のをはりの鴎どり 浮きつつ遠くなりにけるかも
太平洋につつまれる崖に立つと、全身青く染まりそうだ。光る海に巨岩がならぶ。船が行きかう。鳥の群れが白い斑点みたいにゆれている。
伊豆半島の最南端――。この絶景を詩人は波の上から眺めている。そして、短歌のような詩が生まれた。
昭和2年4月のこと。
湯ケ島で療養中の梶井基次郎を見舞った帰りだった。大声をあげ、両手で握手した。友は、まだ元気だった。下田から沼津へ。汽船は、みるみる岬から遠ざかり...
この作品を、読者として初めて読んだ場合。
春の岬。
旅のをはりの鴎どり。
浮きつつ遠く……
ここまで読んだとして、読者はこの文章が、散文詩なのか、そうでない何かなのか、判別がつきません。ちょっと文語・旧かな調だから怪しいかな、くらいの感じ。
そして、エンディング。
衝撃の、「なりにけるかも」!
ガッタンと舞台がひっくり返る。
いきなり斎藤茂吉!
これ、形式は「短歌」なんですよね。
5(実際は6)・7・5・7・7
しかも茂吉的アララギ正統派文体。
初句が字余り。
三好さん、どうしたんだろう。
短歌形式について、なにか思うところがあったのかな。
「かもめ」と「けるかも」が押韻しているけど。
そういう問題じゃないか。
もちろん、この「一首」、なかなかいい感じで短歌として成立していると思います。
西欧風の明るい陽光のなかの、日本古来の短詩型のたゆたい。
照れてるみたいだし、憧れているみたいだし。
なかなかいいセンスだと思う。
もうひとつ、詩集『南窗集』の中の「土」という詩。
蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ
これなんかも、ほとんど「俳句」として、成り立っていますね。
蟻→蝶の羽→ヨットの帆→大海原のように輝く地面
ぎゅーんとズームアウトする、鮮やかな視覚映像的処理。
なかなか、短詩型の勘所を捕まえていますよねえ。
とくに直喩の意識的・確信犯的な用法。
僕はこのブログのテーマとして、ほとんどこの「短歌」というものに触れてきていません。
ある意味、「最終兵器」だからです。
ブログの毎日更新を自分に課している人は、定番の長い帯みたいなコンテンツを持っているほうが、たぶん楽でしょう。
ただこれは、今の僕にとって、ちょっと鬼門というか、タブーみたいな感じがあるんだよねえ。
精神の終活、というテーマに関して言えば、僕にとって短歌となんであったか問題は、避けては通れないんだけど。
「自作の一首鑑賞とエッセイ」、というやつなら数百回のシリーズが書けるんだけれど、そんなもの需要なんて無いからなあ。
よっぽどコンテンツが枯渇したら、考えようかな。
遺書としてね。ハイリゲンシュタットの遺書、みたいな。
僕がこれまで、ていうか昔、紙で出した歌集はこの3つ。
『猫、1・2・3・4』は、もうこの地上にはほとんどないでしょう。
『猫、拾遺』はもともと激レア。
『愛の挨拶』は、多少残部を僕が持ってます。希望されれば差し上げるけど、まあいらないよね! いずれ整理しよう。
短詩型って「解釈と鑑賞」的な不思議な習慣があって、自由詩や散文とはちょっと違っているよね。
つまり、読者が「読み」に積極的に関与しないと、「作品」が整わない、みたいな。
呼応(歌謡)の文学、みたいな発祥をしたからかも。
ちょっとしゃべりすぎてきたから、この件は、今日はこれでおしまい。
そうか、「遺書としての100首・自註」みたいなものは、書き遺しておいても良いかも。