血圧値 125/78/73 酸素飽和度 98% 体温 36.4℃ 体重 66.7キロ
なんと、渋谷ハロウィンの心配をしていたら、お隣の韓国・ソウルの繁華街、梨泰院で起きた雑踏事故。しかも、日本人の死者まで。
JR渋谷駅周辺では昨夜、若者らから「怖い」「節度を守って」などの声が相次いだそうです。
こういうのを「警鐘」と呼ぶのでしょうか。
さて、昨日のクイズの答えですが。
歴史上、これは一番有名な遺書ではないか、と書きました。
ドイツ語で書かれています。1802年10月6日という日付があります。
このころはまだ、ドイツという国は存在していません。小さな複数の領邦国家が、神聖ローマ帝国という中世封建体制的な、緩い外枠で結合されています。
オーストリアという強国に対して、ようやくプロイセンが主導権を目指して成長しつつありました。
そのころ、この遺書を書いた人は、ボンで生まれました。そのころのボンはケルン大司教(選帝侯)の統治下にあります。
彼は身体の具合が悪くなって、もう仕事もできないと鬱的傾向になり、30代前半(ちょっと曖昧なのは、彼は自分の生年を少し勘違いしていたふしがあるからです)、二人の弟に宛ててこの遺書(手紙)を書きました。
ただこの後、彼は1827年に肝硬変で亡くなるまで25年近くも生きて、超人的な努力によりその病気のハンデを克服し、なんと彼のおもな社会的・文化的業績は、その後半生になされています。なんか、凄いですねえ。
その人の名は、Ludwig van Beethoven。
そしてこの文書は『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれています。
人が自分の死後の人にに言い残す言葉を一般的に「遺言(ゆいごん)」と言います。
遺言は、紙に書かれているケースもあれば、録音や、口頭で伝えられるケースもあります。現在ではメールで残すケースもあるでしょう。どのような形で、どのような内容を残すかは、その人次第です。
耳の病気でこれから先の希望を失い、一時は自殺も考えた彼が、弟であるカールとヨハンに宛てて書いた手紙ですので、この文書は「遺言(ゆいごん)」である、といってよいでしょう。
遺言を記載した書面は、すべて「遺書」です。遺書には決まった形式や書かなくてはならない内容が定まっているわけではありません。好きな紙に(紙でなくともかまいませんが)、自由な内容を書けばよいだけです。
何が書いてあるかというと、こんな感じ。
①私はここ6年ばかり治る見込みのない病に侵されているのだ。無能な医者のせいで状態は悪化するばかりなのだ。
②そしてついにはこの状態がそう簡単には治らない物である事、もしくは回復不可能であるという事を受け入れざるを得なくなってしまったのだ。
③人生のまだ早い段階において人々から距離を取り、孤独の下に生きていかなければならなくなってしまったのだ。
④私は耳が聞こえないのです。と言う事が出来なかったのだ。
⑤私は人々を避けている人物であるかのような生き方をしなければならない。私は私のこうした状態が知られてしまうのではないかという大きな不安におびえている。
⑥これらの出来事は私を絶望させた。そして私が自分の人生を終わらせるまであとほんの少しであった。芸術だけ、芸術だけが私を引き止めてくれたのだ。
⑦忍耐。今や私が案内役とすべきものは忍耐であると人々は言う。私にはそれがある。私は耐えようとする決意が長くもちこたえてくれればと願っている。運命の女神パルカがその生命の糸を切るその時まで。もしかしたら良くなるかもしれないし、良くならないかもしれないが、覚悟はできている。私は28歳において悟った人間になる事を迫られているのだ。しかしこれは簡単ではない。芸術家にとっては他の誰よりも難しいのだ。
⑧お前達には、わずかながら私の財産を残したい。これを財産と呼んでよいのであればだが・・。二人で正直にそれを分け合ってほしい。互いに仲良く助け合ってほしい。
①~⑤までの辛い、ネガティヴな感情。
僕も脳出血で入院した時に、思いました。
五分五分で死ぬのかな、という気持ちと、直接的に遣り残していることへの焦り。
もし生還しても、現実的生活はできるのだろうか、という恐れ。コロナ禍で、誰にも会えない不安。台所のゴミの始末とか!誰もマンションに入れないし。
Beethoven先生は、音楽家としての生命が、聴覚不良という病気で絶たれそうなわけですから、それこそ無念と恐怖を感じていたでしょう。
それが⑥⑦で踏みとどまるのです。骨伝導では多少ピアノの音が採れるので、ピアノに付けた木の棒の端を歯で噛んで、音を感じる。オーケストラの音は聴こえないけど。
もともと天才的音感の良さがあったから、不屈の忍耐と努力で作曲中心の音楽活動を続けられたのですね。
1802年以降といえば、交響曲で見ると『交響曲第3番』から後、ピアノソナタでは『テンペスト』以降ですから、ほんとに主要な作品群はほぼ含まれる勢いです。
31歳のベートーヴェンが、人生に悩み苦しみ、作曲しながら暮らした、ハイリゲンシュタットの家。近くにハイリゲンシュタット温泉があり、ここに通いやすいという立地から、この場所に住んでいました。
また、作曲の合間に自然の中を散歩するのが大好きだったベートーヴェンにとって、自然に囲まれたこの場所は、インスピレーションの源にもなったことでしょう。ウィーンの温泉施設の近くには、ほかにも多くのベートーヴェンゆかりの地があります。
実際、彼は自殺しなかったし、以後頑張って生きたので、この手紙は公表されませんでした。
25年後、ベートーヴェンが亡くなった直後の1827年3月に、この文書はベートーヴェンの伝記を記した秘書兼弟子のアントン・シンドラー、親友であり公務員兼劇作家のシュテファン・フォン・ブロイニンクによって発見され、10月に公表されました。
そして⑧の財産分与の件。
この部分があるので、この手紙は「遺言証書」としての性格を帯びます。
「遺書」は遺された人たちに対して、自分の意見や感情を述べます。「みんなで一緒に仲よく暮らしなさい」みたいな。
ここに、法律的な処置(財産の分与の仕方とか)に対する制限を書き加えると「遺言書」になります。(今の日本の場合を想定すれば、ですが。)つまり、法定相続に従うつもりならば遺言書は必要ないが、「俺はそういうふうにはしないぞ」という場合には、きっちりした形で書き残す必要があるのです。
僕も入院中にチラッと考えましたし、終活を徐々に進めている今も、たまに考えることではあります。