にこたろう読書室の日乗

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0600 起床 気分快 晴 西の京弾丸巡行⑤もう一人の求法大旅行者について。唐招提寺を訪ねる。「エンタシス」はやって来なかった?

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さて、せっかく西の京に来ていますので、薬師寺と並ぶもう一つの重要な寺院、唐招提寺を訪ねましょう。

 

ここも、中学の卒業式以来だなあ。

 

薬師寺玄奘三蔵院伽藍を出て、北に400mくらい歩くと、もう唐招提寺の門前です。

 

途中はこんな感じ。

田舎風の看板ですね。

昭和の風景。

 

 

この道を辿った正面、こんもりとした杜が、唐招提寺の境内です。

 

 

 

着きました。

 

 

南大門を入ると、もう正面が金堂ですね。

この真ん中が膨らんだ、ギリシアの神殿建築風の柱は「エンタシス」様式と呼ばれる、というのを試験でやたらと聞かれましたね。

 

 

 

日本の古代建築様式の源流を、ヨーロッパの古代文明に求める、という感性は、残念ながら、現在ほぼ否定されているようです。

こんな感じ。

 

1893年、帝国大学院生の伊東忠太が、法隆寺の胴張りの起源が古代ギリシャにあるとする論文「法隆寺建築論」を発表した。この説は和辻哲郎が昭和時代に発表したエッセイ『古寺巡礼』によって特に有名となった。

ただし、建築史家の藤森照信によると、この説は建築史的には間違っているとのこと。この説が生まれた背景には、明治時代の日本の建築界において、「日本建築が西洋建築に対して遅れた物である」という大きな劣等感があったため、ヨーロッパ文化の原点であるギリシャと日本の建築がつながっていることを示す狙いがあったという。

 

こういう形状の柱の「胴張り様式」は6世紀、中国の南北朝時代末には見られた様式で、直接はこれが伝わったものであろうと考えられています。

 

奈良時代の8世紀後半に建立された寄棟造の金堂建築は、その後江戸・明治期には屋根の構造を変えるような大修理を経て、現在は当初のものとはやや建築様式を異にしていますが、部材などには1200年以上前の建造当初のものが多く残っています。

 

緻密な考証のもと2009年に終了した「平成の大修理」では、屋根瓦や鴟尾の取り換え、耐震補強等が実施されるなど、奈良時代の面影を未来に伝える努力が繰り返されています。

 

僕が50年前に観たやつとは、詳細な部分が変わっているわけですね。

 

また撮影禁止ですが、堂内には中央部に本尊である盧舎那仏坐像が、また左右には千手観音立像・薬師如来立像、その他にも四天王立像や梵天帝釈天像が並ぶなど、多数の国宝が安置され、建築とあわせて奈良時代の雰囲気を存分に体感することができます。

 

画像はオフィシャルから借りましょう。

 

 


この千手千眼観音像は、手の数がかなりリアルで、圧倒されますね。

千のてのひらに千の眼をもち、衆生のどのような叫びも見逃さない、という能力のあらわれ。

スーパー観音として、その能力を極限にまで進化させた最終形態。

 

解体修理の時の、手の解体図ですが、なんか凄いですね。

 

画像

 

唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いを持ちます。

 

この鑑真と言う人もまた、遥か遠くの唐土から海を越え、長く苦難の連続の旅路を経て、仏教の正しい伝来を目指して日本までやってきた、意志の人だったのです。

玄奘の心意気と相通じるものがありますね。

もう一人の求法大旅行者です。

 

イラストで学ぶ楽しい日本史

 

「鑑真」については、去年の7月にこのブログで少し触れていますので、よろしければ参照してください。

 

0420 起床 気分並 曇のち晴 今日は坊津の海にちなんだ、歴史の風景を考えます。あと、ホルンのお菓子とパン、綺麗なお花をいただきました。 - にこたろう読書室の日乗

 

金堂から少し離れた場所に、このような施設があります。

 


戒壇」といって、仏教用語で、戒律を授けるための場所を指します。

戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所であり、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになるわけです。

 

当時の日本には、ちゃんとした戒律を授けるための戒壇システムがなかったので、適当な人が勝手にお坊さんになってしまう。

それではいけないと、鑑真はえらく大変な苦労を引き受けて日本にやって来て、奈良の東大寺をはじめ大宰府観世音寺、下野(栃木)の薬師寺戒壇を設け、僧尼となるための受戒(=規律を守ると誓う儀式)ができる場所をつくりました。

当時、受戒ができたのはこの3ヶ所のみで、のちに「天下の三戒壇」と呼ばれることとなります。

 

唐招提寺は鑑真が引退してから入ったお寺だから、ここの戒壇はやや小規模な、プライヴェートなものなのかもしれません。今は、経年の荒廃で、下の三段しか残っていません。

 

鑑真の尽力でこれまで私度僧の乱発で乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善されたのですが、鑑真と朝廷の関係は次第に悪化します。

鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するためには、全国各地に戒壇を造る必要がある。このため仏舎利を3000粒も持参していた。

一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われます。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知るのです。

 

鑑真はここで亡くなったので、お寺の境内の奥にはお墓があり、境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物の「御影堂」には、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められています。苔の美しい庭もあります。

 

国宝 奈良時代(8世紀)

脱活乾漆(だっかつかんしつ) 彩色

唐招提寺御影堂障壁画 東山魁夷

 

お墓と苔の庭については、また次号。