血圧値 131/80/64 酸素飽和度 97 % 体温 36.2℃ 体重 70.1キロ
どうやら、16時前には、法起寺を攻略できそうです。
いやー、足が疲れてきたなあ。
辺りは、こんな感じの田園風景。
昔に比べて、さすがに家が増えたかな。
蓮華が咲いてます。
菜の花の向こうに、法輪寺の三重塔が見えてきました。
7世紀後半に建てられた斑鳩三塔(法隆寺・法起寺・法輪寺の塔)の一つです。
法輪寺の三重塔は、明治時代に国宝に指定されていたにもかかわらず、昭和19年に落雷に遭い、焼失してしまったそうです。なので、今の塔は新しいものですが、なかなかお見事に復元されていて美しい。当時の雰囲気が良く伝わります。
法輪寺の創建も、よくわからないところがあって、主として次の二つの説が有力。
①推古30年(622)、聖徳太子が病気になったとき、息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)がその子・由義王(ゆぎおう)らとともに病気平癒を願って建立した。(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)
②天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師・圓明法師、下氷新物三人が合力して造寺した。(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)
伝来している薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像が、飛鳥様式を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり状況が整っていたであろうと考えられます。
この講堂に充実した仏様たちが整然と並んでいます。
とくに、中央の3体。
一木造・彩色・像高175.4㎝
旧金堂安置像で、寺伝で虚空蔵菩薩としていますが、左手に水瓶をもち、右手の形状からみても、観音菩薩とするべきでしょう。「虚空蔵菩薩」と称されてきた事情は、聖徳太子の本地を虚空蔵菩薩とする後世の信仰によるものと推定されます。
ちなみに、虚空蔵(こくうぞう)って地蔵の反対です。つまり、空と大地の恵みとか守りとかの擬人化ですね。地蔵信仰のほうが、のちのち、大発展したのはご存じの通り。これは地母神信仰というものが古今東西、広く存在するからです。
木造・彩色・像高360.0㎝
化仏(けぶつ)という小さな仏頭を頭の上に載せています。
この観音様は、衆生の状況に応じていろいろな「顔」で対応しますよ、というサービス精神の表れです。
宝髻(ほうけい)の上に仏面1、地髪の正面に慈悲面3、左側に瞋怒面3、右側に牙上出面3、背後に暴悪大笑面1。
仏の顔、慈しみの顔、怒りの顔、もっと激怒の顔、嘲笑ってるみたいな顔。
これで11面プラス本来の顔ですから、十二面あるのですが、まあ細かいことは良いでしょう。
光背はやけにモダーンですが、後世の補完ですね。
千手観音というタイプは、この仕様にさらに腕がいっぱい付いて、かなり異様です。
それだけ衆生の要望は増大するばかりである、というわけです。ノーマルなタイプを聖(正)観音と呼ぶのに対して、その進化型は変化観音とか呼びます。
三十三観音霊場とか言うように、33種を数えたりするのですが、具体的なキャラクターとして信仰形態を持っているのはそんなに多くはありません。六道に合わせて、一桁くらいかなあ。
金堂に安置されていた、現存する飛鳥時代の木彫如来像としては唯一・最大のものといわれています。
寺伝で、山背王御一族の現世利益を祈願して鞍部鳥、例の止利仏師に造らせた薬師如来と伝え、薬壷を持たない古い形式をもっています。
ちょっと下半身の造形は止利じゃないような。
薬壷をもつ像が多く造られるのは平安時代以降だろうから、これは薬師で良いのかな。与願・施無畏印だし、ちょっと見は釈迦牟尼にしか見えないけど、このお寺が太子の病気平癒を発願したのであれば、薬師が妥当なところですかね。なお、色鮮やかな光背は明治後補のものです。
このお寺、じつは秘仏の妙見菩薩立像があって、11世紀頃の作とされ、現存する最古の木彫妙見像ともいわれています。
会式(4月15日)のときのみ一般公開となるのですが今回は日にちと予定が合いませんでした。残念。
妙見信仰は北極星を神格化した信仰です。インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来しました。
法輪寺は小さな地味目なお寺ですが、このように意外と奥の深い、見るべき豊かな文化を伝えている場所なのです。