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0600 起床 気分快 晴 法隆寺の若草伽藍と改築後の現行の伽藍はなぜ軸線がずれているのか。

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昔から謎に思っていることなのですが。

法隆寺の若草伽藍と、改築後の現行の伽藍は、なぜ軸線がずれているのか。

 

さらに、いくつかの古代寺院が、同じ軸線の傾きをもつことの意味は?

 

知られているとおり、日本最古の現存する木造建築である法隆寺は、創建当時のものではありません。初代法隆寺は火災により焼け落ち、今あるものは再建されたものです。

とはいっても、いろいろ議論はありました。

 

こんな感じ。

 

法隆寺は、『日本書紀』の解釈によれば606年(推古天皇14年)、寺伝によれば607年(推古天皇15年)に聖徳太子が建立したとされる。『日本書紀』には670年(天智天皇9年)に法隆寺が焼失したとの記述があるが、現存する法隆寺はその金堂の様式から創建時のものであるとする説もあり、明治20年代から約50年間にわたって現存する法隆寺が創建時のものか再建されたものかを巡って、再建・非再建論争が繰り広げられた。


日本書紀天智天皇9年(670年)4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺の伽藍は670年に一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになる。

 

要するに、問題はこんな感じ。

 

法隆寺について、『日本書紀』には以下の2つの内容しか記載されていません。

607年:斑鳩寺建立
670年:斑鳩寺が焼失

法隆寺は今もその姿を見ることが出来ますが、『日本書紀』には670年の後、再建されたという記載はされていません。

ここから、

①『日本書紀』に書かれている670年の焼失は無く、今ある法隆寺は、聖徳太子の時代のものがそのまま残されたもの

②『日本書紀』に記載の通り、火災により一度焼失した後、再建された

という2つの説が生まれ、長きにわたって論争が行われてきました。

 

この「法隆寺再建論争」に大きな進展が見られたのは、1939年(昭和14年)に「若草伽藍」と呼ばれる、焼失前の創建時代の法隆寺の遺跡と思われる遺構が発見されたことです。

 

この時の発掘調査で、若草伽藍の跡地から、四天王寺式の配置の塔や金堂跡がはっきりと確認されたのです。さらに、西院・若草伽藍両方の中心線の方向から考えて、同時に建っていると考えるのは不可能だということと、そこから発掘された瓦は、西院のそれよりも古いということがわかりました。

 

これにより、聖徳太子が創建した斑鳩寺と呼ばれた若草伽藍が焼失し、その後、現在の法隆寺・西院が再建されたというのが、ほぼ定説となっています。

 

この遺構は2017年にはさらに発掘調査が新規に再開されています。

 

 

「若草伽藍」全域の発掘調査はまだ済んでいませんが、こんな感じで現行の法隆寺西院伽藍とは、その軸線が傾いていますね。

これでは、同時に存在したとは考えにくい。

なので、若草伽藍の寺院のほうが古い、と考えられるわけですね。

 

 

 

 

ここで興味深いのは、同じような軸線の傾きを持つ、複数の古代寺院が、ほかにもいくつか存在する、ということです。

 

こんな感じ。

 

写真の説明はありません。

 

ここでは概要を記しておきます。

 

①坂田寺(さかたでら)は、 奈良県高市郡明日香村大字阪田にあったとされる寺院です。日本書紀(巻第二十一 用明天皇)に、「約4.85メートルの仏像と寺を建てて奉った。坂田寺の木製の仏像とけふじの菩薩がそれである。」と記されている。
鞍作氏の氏寺とされ、若草伽藍と同じ軸線を持つとされています。

 

②豊浦寺(とゆらじ)は、奈良県高市郡明日香村にある向原寺の場所にあったとされる寺院。592 年に推古天皇が即位した豊浦宮は、飛鳥時代の始まりを告げる宮殿として有名です。彼女は 603年に小墾田宮へ移り、その後、豊浦宮の跡地を寺にしたと伝えるのが豊浦寺です。僧寺である飛鳥寺に対し、尼寺として知られていますが、飛鳥寺と同じく、造営者は蘇我氏でしょう。向原寺周辺には豊浦寺の遺構が残っており、1957年以降発掘調査が実施されて、塔、金堂、講堂の跡が検出されています。豊浦寺も若草伽藍と同じ軸線を持つとされています。

 

③檜隈寺(ひのくまでら)は、奈良県高市郡明日香村にあった渡来系氏族、東漢氏の氏寺とされる古代寺院。7世紀後半の創建で、中世には道興寺(どうこうじ)とも称した。寺跡は1969年以降、4次にわたる発掘調査が実施された。その結果、檜隈寺の伽藍配置は、中軸線が西方に振れ、塔を挟んで南に金堂、北に講堂が位置し、中門は西側に位置する特異なものであったことがわかりました。

 

これらの寺院はいずれも奈良時代に建立され、法隆寺との関連性が指摘されています。そのため、法隆寺の影響を受けた建築様式や思想が取り入れられている可能性があります。また、若草伽藍と同じ軸線を持つことで、創建法隆寺との関係性を考えることもできるかもしれません。

 

じつは、この前訪れた斑鳩の古代寺院は、やはりこの軸線に沿って建てられています。

この軸線を太子道(筋違い道)に沿ってたどると、古代明日香の中心地に到達します。

 

2つの法隆寺

 

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Watson's Page,GPS考古学・筋違道の謎を解く 序論

 

この問題の背景には、政治的な求心力を晩年失って斑鳩で隠遁生活をしていた太子と、推古天皇蘇我馬子を巡る政治的な対立など、壮大な歴史のうねりのようなものの存在を感じさせられます。

 

これについては、また稿を改めて考察しましょう。