にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0600 起床 気分快 晴 人間、ものを食べているうちは生きている。だからそれをブログに書くこともある、ということについて。

血圧値 129/84/67 酸素飽和度 98% 体温 36.4℃ 体重 69.2キロ

 

何を食べたとか、何を呑んだとか、そういうことだけの日乗(ブログのことね)をいちいち書いてもなあ、という気持ちはあるのですが。

 

どうも最近、そっちに流れる傾向があるなあ。

 

安易、な生き方であろうか。

まあ、ひとさまにわざわざお見せするものでもないかな。

(でもアクセス数は、この話題の時のほうが多いので、これもなんだかなあ)

 

ひとつ今日は、言い訳というか屁理屈を述べますと。

 

屁理屈はへぼが使う理屈の略なんだよ - 2019年04月19日のイラストのボケ[71961253] - ボケて(bokete)

 

僕がリスペクトする永井荷風先生は、1917年(大正6)9月16日から死の前日の1959年(昭和34)4月29日に至る42年間の記録である、膨大な日記というか私小説というか、ともかくとてつもない記録を残しています。

 

僕の読書室の棚の一角を占めている、その日記。
こんな厚さで、7巻もある!

 

これを『断腸亭日乗』と呼びます。「断腸亭」は住んでいた住居の雅号です。

ていうか荷風先生のペンネームね。

 

変な名前ですが、秋海棠(断腸花)にちなみます。

 

季節の風景:秋海棠(断腸花)

 

中国原産。日陰を好む可憐な花。片想いの女性の涙から できたという言い伝えがある。別名 「断腸花」、「瓔珞草」。

この花をことのほか愛でた永井荷風は、 自らを断腸亭と号したのです。(号はほかにもあるけど)

 

だから、意外とお洒落な名前なのです。

 

僕のこのブログを「にこたろう読書室の日乗」と名付けているのは、荷風先生にならっています。

 

荷風先生は、ひとことでは要約できない、変な人、不思議な人です。

 

 

官吏であり文人でありお金持ちであったお父様に、いろいろな感情があって、アメリカ・フランスに遊学したり、でも帰国したら道楽息子として放蕩したり、歌舞伎の戯作を書いたり、俳句を作ったり、花街で遊んだり、変な写真撮ったり、いろんな女の人とくっついたり離れたり、でも文化勲章をもらったり。

 

今日が命日・永井荷風は吝嗇家(りんしょくか)? | Mr.NAOのコミュニケーションシアター

 

そんなだから、国語の教科書は荷風の作品を取りあげません。

良い子に読ませるものではない、ということでしょうか。

「濹東綺譚」は、載せられないだろうなあ。激しく同意。

 

こんなことして、嬉しそうだし。

 

 

戦後は隠者か偏屈老人のような独り暮らしをしながら、僕が生まれたちょうど一月後に、誰にも看取られず、自宅で倒れて亡くなりました。

 

まあ、一生涯、自分を通して、好き放題に生きた、粋な人でしたね。天晴。

 

そうそう、ここで荷風論を書くつもりはなかったのでした。

書いておくのは、このこと。

 

 

亡くなる直前の、2月12日から、4月29日までの日記の全文です。

末期の胃潰瘍(癌だったかも)で、血を吐きながら、それでも生きようとしている荷風です。日記も毎日ちゃんと書いてるけど、もう1行くらいしか書けない。

 

晴・陰・雨とか天気のことしか書けない日も続きますが、2月中は「正午浅草」とあります。

これは浅草の「アリゾナ」という行きつけでお気に入りの洋食屋さんに、食事をしに行くのです。

 

 

このころ荷風は、千葉の市川の本八幡界隈に住んでいましたから、ここから電車で浅草まで「通勤」していたのですね。ぼうっとほっつき歩くような「仕事」だけど。

 

ずいぶん前の夕食で初めて「アリゾナ」を訪れて、凄い気に入ったので、あくる日は正午前に行って、肉料理2皿、ビール1本を注文。そこから15日連続して通って、同じものを食べる。

その次の日からは、違う種類のお皿を2品とビールにシフト。これがまた15日続く。

 

凄い極端な人! 好きなものは徹底して食べる。

子どもみたい。

でもそれが荷風の食事の流儀だったのですね。

だからまあ良いか。

 

それが3月1日の浅草を最後に、超具合が悪くなって、ほぼほぼ家に病臥の毎日。

今度は「正午大黒屋」とあります。

これは「本八幡」駅の近くの老舗の食堂で、出歩ける日はこの店に通ったのですね。

 

昭和20年代末~昭和30年代初期の大黒家

 

人間嫌い、偏屈な荷風のメニューはカツ丼と上新香、それに日本酒一合と決まっていて、しかも昼飯の席にも女将(当時は20代)さんが側にいることを要求したという。

 

僕の生まれた3月18日は「晴。正午大黒屋食事。」とあります。

荷風先生、この日は具合が良かったのかな。ほっとしますね。

 

4月2日は文化賞45万円を郵便局に受け取りに行ったり。

この日はもちろん、大黒屋で食べますよ。お祝いだもの。

 

結局このお金は、先生あんまり活用できなかったんですねえ、残念。

病気が治れば、もっといろいろ美味しいものが食べられたのに!

 

3日から18日まで、「大黒屋」無し。外に出る気力もなかったのかも。

 

19日、最後の「大黒屋昼飯」表記。

 

29日、「祭日。陰。」 79歳の生涯を終える。汚れ果てた乱雑な部屋の中に洋服を着たまま倒れて息絶えていたそうです。

検視で、荷風は前日にも大黒屋でカツ丼を食べたらしいことが判明。良かったなあ。

 

こういう記事があります。

 

身内がひとりもいない死の床の戸外には、50人余のジヤーナリストがつめかけていた。これは荷風死後のある瞬間における、荷風家をめぐる現実の姿であつた。

老残の荷風は,みとる人もなく、ひとりで死の床に横たわつていた。発見されたのは、通勤の老婆が翌朝出勤してからのことである。

荷風は長く独身で、身辺に人を近づけなかつた。女には近づいたが、共に住まなかつた。女ばかりではない、荷風の嫌人癖は徹底していた。それが荷風の方針であつたから、死の床にだれひとりいなくても荷風はもつてひとり瞑することができたであろう。恐らくは、その生涯をかえりみて、死期の後悔もなかつたであろう。その方針を貫いただけである。死に伴う必然の肉体的苦痛はあつたかもしれないが、精神のいたみは全々無かつたであろう。荷風はそのように生き、そのような最後をも自ら読んでいたことであろう。

 

「孤独な魂・永井荷風の死」 長谷川 泉

助産婦雑誌 13巻8号 (1959年8月発行)

 

最悪の体調に苦悶しながらも、医師や薬剤を頑固に拒否し続けた最晩年の彼を、佐藤春夫(小説家。1982〜1964)は、「自然死による覚悟の自殺を企てていたものとしか、わたくしには考えられない。」と言っています。

 

粋にこだわり、食にこだわり、酒とバラの日常にこだわった荷風先生の一生を、僕はちょっと哀しくも、羨ましい気持ちで受け取っています。

 

なので、僕も美味しいものを食べたら、ちゃんとブログに書いておこう。