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毎日、ニュースを開くたびに、「人が人を殺した」という事件の報道が目に飛び込んできます。
毎日毎日、何件も何件も。
たとえばこんな感じ。
①女性が全身を毛布で包まれ、その上から紐のようなもので縛られた状態で発見された。死因は窒息死だった。
➁女子大学生に劇薬の“タリウム”を摂取させて殺害したとして逮捕された男が、自身の叔母に対する殺人未遂容疑で5月24日に再逮捕された。
③「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前8時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。
④宮崎県都城市の介護施設で、ほぼ寝たきりの状態の86歳の妻を首をしめて殺害したとして88歳の夫が逮捕されました。夫婦は施設の同じ部屋で生活し、自宅に戻ることを目標にリハビリを続けていたということで、警察が詳しい経緯を調べています。
(これは、今さっき見た直近の事件!)
あまりにも理不尽・不可解な動機から、ある意味、身につまされる事例まで。
数限りなく、連綿と続く報道。
昔から、こんなだったっけ?
ちょっと日本とは思えない、別の国や地域みたいに感じるけど、どうなのかな。
そして、これ。
米紙ワシントン・ポスト(電子版)は13日、米欧当局者の推計として、ロシアの侵略に抗戦を続けるウクライナ軍の死傷者数が最大約12万人に上ると報じた。実戦経験が豊富な兵士の多くが死傷し、ウクライナ軍が計画する大規模な領土奪還作戦の成功に将校らが悲観的な見方を示したと伝えた。露側も約20万人が死傷したと推計され、兵器不足が指摘されており、戦況こう着が長期化しそうだ。
"One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify"(「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が(殺人を)神聖化する」。
元は英国国教会牧師で奴隷廃止論者、ベイルビー・ポーテューズの言葉です。
同じような理屈で、ドイツのアイヒマンは「百人の死は悲劇だが百万人の死は統計だ」と言っています。ソ連の独裁者スターリンも「ひとりの死は悲劇であるが、万人の死は統計でしかない」などと言う言葉を残しています。
つまり、職務として人を殺す行為は、犯罪ではない、という考え方です。
ここで考えたいのは、そもそも人間には人間を殺す権利があるか、ということです。
「そんなの、無いのがあたりまえじゃないか」ということは簡単ですが、じつはそう簡単ではない。
他の動物が、あまり同種で殺し合いをしない、配偶者を奪い合う場合でも、ライバルを殺すまではしない、という原則はよく言われることですが、特殊な例外的ケースはいろいろあるようです。
たとえば、こういう集計。
2016年にスペインの研究者ゴメス氏(José María Gómez)の研究グループが哺乳類1024種の死亡原因400万件を分析しており、哺乳類の同類殺害についての調査を行っています。
同種による死亡率が高かったトップ10と割合のグラフ。(1%なら死亡した動物100匹のうち、1匹の死因が同類の攻撃による。)
一番多いのはミーアキャットで19.36%、死亡5匹のうち1匹は同種に襲われたことが死因になっています。
肉食動物ではアシカが結構高く15.31%、ライオン13.27%、オオカミ12.81%、ピューマ11.73%、ヒグマ9.72%です。
意外なことに平和そうに見える生き物でも争うことが多いようで、リス・ウマ・シカ・ガゼルなども50位以内に含まれています。率は低いですがハムスターやイルカでも起きるそうです。
霊長類(人類、類人猿、サル、キツネザル)は哺乳類の中では結構暴力的な部類になるようで、霊長類の共通の祖先では2.3%、類人猿の祖先では1.8%になっています。しかしチンパンジーは4.49%ですがボノボは0.68%と、近縁種であっても生活スタイルによって差があるとか。ゴリラでもニシゴリラは0.14%と温和ですが、ヒガシゴリラは5.0%と結構荒っぽいです。
逆に平和的だったのは、コウモリ、クジラ、ウサギなどの動物で、これらは暴力的な行為はほとんど見られなかったそう。
とくに、ヒトの行状を考えると、喜んで殺人を犯す場合は特別としても、少なくとも人殺しをあんまり罪悪感なく普通にできる、という精神状態は、古今東西、多々みられることでしょう。
そうでなければ、こんなに毎日毎日、殺人事件が起きるわけがない。
それでも、「やはり人を殺すのは良くないことだ」、という倫理的・感情的な前提は、人として当然の正義であるでしょう。
しかし、例えば日本人である僕たちは、いま、現状として「人間には人間を殺す権利がある」と認めています。これは現実です。
昨年の、この報道。
法務省は2022年7月26日、東京・秋葉原で2008年6月8日に7人を殺害、10人を負傷させ殺人などの罪で死刑が確定した加藤智大死刑囚の刑を執行した。
事件発生から14年、死刑確定から7年余りでの執行となった。加藤死刑囚はJR秋葉原駅近くの歩行者天国の交差点にトラックで突入し通行人をはねた後、無差別にその場にいた人をダガーナイフで刺すなどした。
そう、「死刑」の制度。
我が国は死刑を合法として採用していますから、強盗殺人など、非常に重い罪に当たるとされる罪人に対し、死を与える、つまり殺人を執行するという権利を、僕たちは持ってることになります。
死刑制度が合法的に可能な理由は、日本の刑法において死刑が認められているためです。
死刑は、殺人罪やテロ等の重大犯罪に対して科される刑罰であり、量刑判断においては、殺害人数だけでなく、殺人の動機・目的、殺害に至る状況・形態、裁判における被告人の言動なども総合的に考慮されます。
日本は、死刑制度を維持する国の一つであり、2022年10月現在、108カ国が死刑を廃止していますが、日本は維持しています。
これについては、いろいろ議論がありますが、少なくとも現時点で日本国籍を持つ人は、「人間には人間を殺す権利がある」という命題を支持していることになります。
これが支持される最大の理由は、被害者の加害者に対する報復的感情でしょう。
最愛の人を無残にも殺害された経験を持つ人と、そういう経験を持たない僕のような傍観者では、感情の度合いは雲泥の違いです。
できるなら自分の手で報復してやりたい。しかし仇討ちが合法、という時代ではありませんから、勝手に復讐をしてはいけない。
個人でやれば、これは私刑ということになり、これを無制限に容認しては社会の治安が乱れる。また、当人も殺人の罪に問われる。
そこで、国家=政府が善意の国民の意向を代行・委託されて報復を執行する、というのが現行の私刑の制度です。
制度自体の善・悪をいうのではありません。
どちらの考え方を選ぶのかは、イデオロギーの問題です。
お父さんが好き/お母さんが好き
犬が飼いたい/猫が飼いたい
乃木坂推し/HKT推し
二つに割った肉まんの右側が美味い/左側のほうが美味い
どっちの立場を選んでも良いけど、それでも僕はこっちを選ぶ、というのが「イデオロギー」の本質です。
そこにあきらかな「正解」はないのです。選ぶこと自体にこそ、意味がある。
僕たちは、「死刑」という制度の存在が嫌な場合、日本を離れるか、日本の法律を変えるか、のどちらかの方法をとるしかありません。
秋葉原無差別殺傷事件からこの8日で15年になりました。
事件で重傷を負った湯浅洋さん(69)は、「真実を知りたい」との思いから、加藤智大元死刑囚に7通の手紙を送っていました。
いまも疑問は拭い去れないが、「考えることで光が見える」と、悲惨な事件の根絶を祈り続けているそうです。
どんどん起きる、あたらしい悲惨な事件の陰で、上書きされていく感情。
ずっと心の中に持ち続け、苦しみ続けている人も、いるのです。