にこたろう読書室の日乗

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0540 起床 気分快 晴 鷹番巡行【見て・歩いて・よろこぶもの】⑥ といっても僕の住んでるこの町が「鷹番」なんですけどね。

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鷹番巡行、といっても僕の住んでるこの町が「鷹番」なんですけどね。

 

ドアから外に出て、目黒通りを渡ってすぐのところの道端に、こんな祠が残ってます。

 

ここは旧目黒通りの辻にあたります。

今の直線の広い目黒通りは、たしか前のオリンピックの時、整備されたんじゃないかな。

 

「塞ノ神」、境を守る神様ですね。

 

このあたり、当時の村のはずれの、境界線だったのでしょう。

 

隣には、二つに割れた板碑があります。

なんて書いてあるのかな。

 

どうやら堂内の石仏は「馬頭観音」のようです。

建立は嘉永三年(1850)といわれています。台座には「武州比企郡諏訪山妙安寺」と刻されているので、目黒銀座の馬頭観音(上目黒2-14-6)と同様に、埼玉県東松山市の「上岡馬頭観音」として関東地方随一の馬頭観音霊場である諏訪山妙安寺から勧請したのでしょう。

 

参考:「めぐろの文化財」目黒区教育委員会

 

いつ見ても、どなたかご近所のかたが手向けたお花が飾られています。

もうこの周辺には、村も畑も鬱蒼とした森もあぜ道もありませんが、当時の共同体の祈りや畏れの意識が、こうして生きているのですね。

 

さて、ちょっと変わった地名である「鷹番」は、もとは現在の東横線学芸大学駅の東から目黒通りに至る一帯の旧字名でした。

 

現行の町名はこんな感じで残ってます。

 

その由来については、この辺りに「目黒筋」の鷹場の監視に当たる鷹場番所があったのです。単に「鷹場」あるいは「鷹場前」という呼称が転訛したものとする説もあります。

 

この辺り、動植物の豊かな、江戸近郊の農村・行楽地で、将軍様の鷹狩のフィールドだったのですね。

 

『江戸名所図会』によれば、こんな感じ。

 

江戸時代、江戸近郊の農村地帯は、将軍家の鷹狩りの場所「御鷹場」として指定され、とくに、八代将軍吉宗のころ以降、江戸周辺五里の範囲一円に設けられた「江戸廻り六筋御鷹場」を舞台に、将軍一行の鷹狩りや遊猟が盛んに行われた。

 

当時の目黒の地は、この「六筋御鷹場」の一つ、現在の港・品川・渋谷・世田谷区にまたがる「目黒筋」の中心地で、約十六万坪に及ぶ広大な原野「駒場野」をはじめ、「碑文谷原」と呼ばれた現在の目黒本町五丁目・六丁目、原町、洗足一帯、野鴨が豊富な「碑文谷池」(現・碑文谷公園弁天池)などが、鷹狩りの好適地としてたびたび利用されたと伝えられる。

 

自給自足のさびれた農村であった目黒の中で、駒場野、碑文谷原、碑文谷池などが、将軍家の格好な鷹場となった。また、鷹場の各所に鷹番を置き、各村に高札を立てて村の連帯責任で見張らせたりしたといわれている。鷹番の地名もこんなところから出たものであろう。

 

今はさすがに、さびれてはいませんよ。

 

新旧目黒通りの合流点。

 

学芸大学駅前。


昔は、こんな感じでしたけどね。

 

このあと、東横線は高架になります。

これは珍しい。

東横線を高架に切り替えたときの写真です。

 

左側の切り離した線路が下を走っていた線路かな。
かなり古い車両なので、テスト走行をした時の写真なのでしょう。
線路を撤去したら、そこに高架を作り線路をまっすぐになるよう作り替えたのかも。

 

車輛のレトロ感が良いねえ。

 

参考までに、これは昭和2年から昭和6年頃の地図みたいです。
学芸大学駅もまだ碑文谷駅になっています。

旧目黒通りが、くねくねしてますね。

この地図では見えていませんが、目黒川もかなりくねくね蛇行していたのです。