にこたろう読書室の日乗

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0450 起床 気分快 晴 目黒・行人坂巡行【見て・歩いて・よろこぶもの】⑩中編 江戸の華、明和の大火とお七の情念を考える。

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天台宗大円寺

山門を入るとまず目につくのが、これ。

凄い数の石仏群ですね。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されています。

 

この看板によれば、石仏群は大規模な火災の死者を弔うために造られたものなのです。

 

振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火事のひとつで、死者1万4千人以上を出したと言われる明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれています。

 

いきさつは、こんな感じ。

 

2月29日午後1時頃に、武州熊谷無宿の僧・真秀が盗みを働くために寺の蔵に火をつけたのが出火原因となりました。

折からの強い南西風にあおられて、麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して一旦は小塚原の辺りで鎮火したものの、午後6時頃に再び本郷から出火し、駒込、根岸を焼いています。
その後、翌日の昼頃には再度鎮火したかに見えたのですが、翌々日の午前10時頃に馬喰町付近から再々出火し、今度は東に燃え広がって日本橋の界隈がほぼ壊滅しました。それらによって、934の町を焼き、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数え、山王神社神田明神湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災、死者は1万4700人、行方不明者は4千人を超えたと言われています。

 

『目黒行人坂火事絵』はリアルに様子を伝えています。

 

 「明和9年江戸目黒行人坂大火之図」によると、類焼範囲はこんな感じ。

 

これは大変な火事ですね。

それでも、115年前の1657年(明暦3)に起きた明暦の大火(死者10万人以上)と比べると死者も少ないといいますので、ほんと江戸時代は火事がたいへん深刻なな災害だったのですね!

 

3大大火の内容を比べると、こんな感じ。

 

 

目黒から浅草・千住まで、しかも江戸城まで被害があったくらいですから、江戸幕府は火事を起こした犯人である僧・真秀を捕らえて市中引き回しの上、小塚原で火刑に処して、大円寺は以後76年間も再建を許されなかったそうです。

 

たくさんの石仏群は、この大火の犠牲者供養のために、石工が50年という長い歳月をかけて完成したといわれているのです。

 

火事繋がりで、この寺はまた、「八百屋お七」の情人吉三ゆかりの寺でもあります。

 

「お七という名の八百屋の娘が恋のために自宅放火という大罪を犯す物語」は、いろいろな形態で江戸時代を通じて語り継がれています。

どこまで史実に裏付けされた物語なのかはさだかでありません。

 

「お七は火事で焼け出され、火事が縁で恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」という、このあくまでもしつこく「火」にこだわる伝説は、江戸という時代に「火事」がいかに重大な社会現象であったかを物語るものなのでしょう。

このお寺は、お七の情人吉三が、出家したお寺のようです。
石碑は、西運(吉三)がお七の弔いのため、目黒不動浅草観音を約10里を鉦をたたき念仏を唱えながら日参した姿が彫られています。

 

大円寺のご本尊は、建久4年(1193年)に造られた清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り・高さ162.8センチメートル)で昭和32年に国の重要文化財に指定されているのですが、秘仏なので今回は観られませんでした。残念。三月になったらもう一度来てみますかね。

 

10世紀に中国・宋からもたらされた京都・清凉寺(せいりょうじ)の釈迦如来立像は、釈迦在世中にその姿を写した像として信仰を集め、「清凉寺式釈迦」と呼ばれる模像が多数制作されましたが、本像もその一体です。

 

さて、このお寺に関しては、大黒天信仰について触れなければなりませんが、尺が長いので、以下、次項。