血圧値 121/83/72 酸素飽和度 98% 体温 36.3℃ 体重 67.1キロ
夢の跡、僕が興味を持った廃線の話題の二つ目は。
②川を越えられなかった熊谷線、という話。
かつて、熊谷線という路線がありました。
今はもう、ありません。
熊谷線は、埼玉県熊谷市の熊谷駅から大里郡妻沼町(現・熊谷市)の妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。
地元では妻沼線とも呼ばれていました。
上の地図では線路は熊谷から北上し、利根川のほとりの妻沼で止まっています。
川を越えて北側を見ると、群馬県の太田駅があり、そこから東武小泉線が触手を伸ばすように南下しています。
つまり、この二つの触手は、いつか利根川を越えて繋がる予定だったのです。
中島飛行機株式会社は、1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。
通称は中島(なかじま)。
創業者は中島知久平。
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであり、日本軍向けに多くの軍用機を開発・製造しました。
太田製作所は陸軍機、小泉製作所は海軍機を開発しました。
実験用の飛行場も見えます。
この会社を興した中島知久平は海軍の技術士官でしたが、「戦艦作るより飛行機作るほうが国防上安上がりだから民間で飛行機を作るため会社を興すよ(意訳)」という思いでこの会社を立ち上げたといいます。
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により、中島飛行機は12社に解体され、現在のSUBARU、日産自動車はその末裔。
つまり、この熊谷~太田を結ぶ計画は、軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市の中島飛行機への要員・資材輸送を目的としていたのです。
熊谷駅~東武小泉線の西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として19433年(昭和18年)12月5日に熊谷駅~ 妻沼駅間が開業しました。
しかし、第二期工事区間である新小泉駅~妻沼駅間は開通前に終戦を迎え、戦後、治水上の都合からすぐに工事を中断出来ず、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成するまで行い終了しました。
列柱がまっすぐ並ぶ様子。なにかの神殿遺跡みたい。
とてもシュールな光景ですね。
そのため、この熊谷~太田の路線計画は、利根川を挟んで南北に分断された形でそれぞれ営業を行うことになり、その南側が「熊谷線」、ということになります。
なお、この橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されたましたが、堤内の1脚のみが群馬県側に残っているらしい。
三洋電機(今はパナソニック)の工場の時代、地元に還元としてこの廃線跡を整備。立派な保存施設になってるようです。
ほぼ、古墳状態ですね。そこに建つ巨石建造物。考古学ではこういうのをメンヒル(menhir) というのかな。
戦後はしばらく、このように蒸気とディーゼルが併用されています。
開通以来赤字続きだったこともあり、東武鉄道は1978年(昭和53年)から廃止方針を説明。
熊谷市、妻沼町および沿線住民からは存続要望もあったそうですが、東武鉄道は自社の立場を誠意を持って説明し、監督官庁の許可を経て1983年(昭和58年)5月31日の運行限りで廃線となりました。
熊谷線が廃止されたため、東武鉄道から東武本線系および東武東上線系のいずれにも属していない独立した路線が消滅しました。
廃止後ディーゼルカー1両が妻沼町に寄贈され、妻沼中央公民館に運ばれました。
現在も展示されているらしいです。(未確認)
「カメ号」と呼ばれた可愛らしい車両ですね。
そして、例の廃線跡の哀しい風景。
つわものどもが夢の跡。
これは、群馬側の路線の末端、西小泉駅。
なぜか、妙にモダーンな雰囲気です。
じつはこの駅が立地している大泉町は人口の1割以上が外国人であり、そのうちの半数以上がブラジル人であることで有名。
これは地理の試験に出ますね!
駅舎はブラジルの国旗に使われている黄色や緑色を使用し、ブラジルタウンの玄関口であることを表現しており、駅舎入口には、ブラジルの国鳥であるトゥカーノ(オニオオハシ)をイメージしたシンボルサインが掲げられています。
群馬県大泉町に住む日系ブラジル人は1990年に入管法が改正された際に、在留資格制度に加わった「定住者」ビザを利用して来日した人が多いとされています。
これをきっかけに20世紀初頭に南米に渡った日本人の子孫である日系ブラジル人がとくに多く来日し、現在の高いブラジル人比率につながっています。
繋がらなかった、北側の線路跡。
夢の片端。
☆
博物館帰りに、歩いて浅草へ向かいます。
荷風の通った道。
今回はちょっと長くなりました。
以下次号。