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さあ、先が見えてきました。
法輪寺から東のほうに出ると、遠くにやはり三重塔が見える。
あれが法起寺です。
僕は「ほっきじ」と読みますが、最近は「ほうきじ」で統一されてきてるみたいです。
まだ15時だから、悠々間に合う感じです。
途中、右手に丘みたいな地形があり、これは「岡の原」と称される丘陵頂上に位置する古墳で、かつて山背大兄王の墓所とする伝承があったことから一応陵墓参考地とされています。
しかし考古学的には、当該時期の古墳が丘陵頂部に築造される例はほとんどないことから、真偽はちょっと微妙みたいです。
山背大兄王は、法輪寺のところでも触れたように、聖徳太子の息子で、天皇に即位する最有力候補とされていたものの、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子により2度にわたって即位を妨げられました。すでに、父は亡くなっていましたし。
1度目は叔父である蝦夷が推古天皇の遺言により、田村皇子(舒明天皇)を擁立したため。2度目は641年舒明天皇の死去に際して、古人大兄皇子を擁立する入鹿に斑鳩宮を襲われ、斑鳩寺(法隆寺)において一族共に自害させられたため。
系図的には、こんな感じ。
さて、法起寺に到着しました。
この辺りは聖徳太子が推古30年(622)に法華経を講説した伝えられる岡本宮があったところで、このお寺の草創は、聖徳太子が山背大兄皇子に岡本宮を仏教寺とするよう遺言したのが始まりとされています。
その後、舒明10年(638)に福亮僧正が金堂を建立し、天武14年(685)に恵施僧正が宝塔建立を発願し慶雲3年(706)に完成し、伽藍を整えたといわれます。
ちょっと変わった、伽藍配置をしています。
現在は、こうなっているのですが、創建当初はこんな感じ。
法隆寺式に似ていますが、塔と金堂の位置関係が左右逆です。
これは南大門。閉まってます。
西門。通常の入り口はこちら。
三重塔と講堂。
三重塔 国宝 世界遺産 高さは24m。
わが国最古の三重塔として有名。
良く残りましたねえ。素晴らしい。
「卍崩しの高欄」と呼ばれるデザインは、1970年の大改修で復元したものです。一層目と二層目は「三間」(柱の間が3つ)ですが、三層目は「ニ間」になった珍しいもの。江戸の修理の際に、ここも三間に改造されていましたが、昭和の修理の際に現在の姿に戻されたとか。
1993年、「法隆寺地域の仏教建築物」として「ユネスコ世界遺産」の単独指定登録を受けています。
もとは金堂のあった場所に建つ江戸期の聖天堂。
聖天というのは「歓喜天」(Nandikeśvara、ナンディケーシュヴァラ、歓喜自在天とも呼ばれる)、ヒンドゥー教のガネーシャ神(シヴァ神の子であり、脚が速いことで有名な韋駄天の兄)の夫婦が抱き合っている不思議な姿の仏様です。
右四つ左上手、ですね!
ちょっと怪しい感じ。これも秘仏かな。
欲望をかなえ財福をもたらし、夫婦円満を司る。
江戸時代に流行しました。
もとは本堂(現在は江戸期に再建されて講堂になっている)にあった、本尊の十一面観音立像は、現在は収蔵庫に安置されています。
十一面観音菩薩像 平安後期 像高 3.5m
金箔も良く残っていて、なかなか美しい仏様です。
寺伝によると、法起寺は奈良時代には相当栄えたけれども、その後衰微し江戸時代初期には三重塔を残すのみまでに荒廃。それ以降、寺僧の再興努力によって浄財を集め、元禄7年(1694)に講堂再建、文久3年(1863)に聖天堂を建立し、現在の状態となりました。
もうすぐ閉館の時刻ですが、間に合いましたね。
これから法隆寺駅へ戻りたいのですが、バスは1時間近く待たないと来ないので、歩いていきましょう。30分くらいです。
じつは帰り道に観ておきたいものがあるのです。
現在、中宮寺は、400m西の法隆寺東伽藍夢殿の東隣にありますが、それは江戸時代初期に移転したもの。
貴重な飛鳥時代創建の古代寺院跡2.8haを史跡公園として整備し、平成30年5月に公開されました。
敷地は東西126m、南北190m〜220mの台形で、ほぼ中央には土壇状の高まりがあり、発掘調査の結果、南半分が三重塔で、北半分が金堂の基壇である四天王寺式伽藍配置であることが判明。
面白いことに、金堂と三重塔の間隔が、とても狭い。くっつきそうです。
なにかの事情があったのでしょう。
今は埋め戻して、柱の位置をダミーの礎石で示しています。
周りにはコスモスを植えていて、季節になるとこんな感じになるようです。
中宮寺はその正式名称さえ微妙な、謎の多いお寺なので、興味は尽きないのですが、今回はその取っ掛かりを観てみた、ということで考察はこれで納めておきましょう。
4大聖地/4時間の弾丸巡礼の旅は、これでおしまいといたしとうございます。
いやー、けっこう疲れたなあ。
お昼ご飯、食べてないし。
【完】