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法隆寺の西院伽藍を出て、この門をくぐると、遠くに見えるのが、夢殿のある東院伽藍です。
お土産屋さんの風鈴の音がきらきら美しい。
遠い時代に誘われる気分です。
そして、夢殿に到着。
このお堂に安置されている、普段は固く閉ざされている観音様の厨子が、今日は特別に開いているのです。
今回の巡行は、この仏様に会うのが、主たる目的でした。
救世観音菩薩立像 国宝
木造 像高:178.8cm、飛鳥時代
夢殿の御本尊で、聖徳太子(厩戸皇子)の等身像ともいわれ、600年代に造像された救世観音は739(天平11)年にこの八角堂に納められました。
約200年間、法隆寺の僧侶さえ拝むことができなかったとされる秘仏でしたが、明治初期に岡倉覚三(天心)とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされています。
伝説では、封印を解けば聖徳太子の怒りを買い地震により法隆寺全体が倒壊すると信じられていたため長らく秘仏であったとされています。
長年秘仏であったことから保存状態が良く、金箔が多く残っています。現在も春と秋の一定期間のみご開帳されます。
ちょうど今が、この春のご開帳の時期なのです。
「救世」の読み方は「ぐぜ」なのか、「くせ」なのか。
僕は前者です。
このように並べると、「飛鳥仏」のモードがなんとなく伝わりますね。
とても不思議なセンスです。
ところで、救世観音の光背の取り付け方ですが、後頭部に直接釘で打ち付けてあります。
こんな感じ。
この時代、光背はこの百済観音のように、支柱でパラソルのように立てるのが普通です。
この特異性に着目して、哲学者の梅原武さんがかつて立てた仮説に、やはり触れないわけにはいきせん。
「法隆寺夢殿の救世観音像の光背は、聖徳太子の怨霊を封じるため、後頭部に打ち込まれた太い釘によって、取り付けられている。」
梅原さんの「法隆寺論」は、この本で有名になり、当時の日本人は驚愕させられました。もちろん、僕もリアルタイムで読みましたよ。
(先生のこの読書室、良い雰囲気だなあ。)
1972年に発刊された本ですから、もう50年も前か。
僕は中学生だったんだなあ。凄い昔。
けっこう、影響を受けてます。
当時の僕は、ブラームスやマーラーの交響曲を聴き、京都奈良の古寺を巡る、変な中学生だったのかなあ。
今は、こんな風になりました。成長!(病後人ですけどね)
梅原さんの論点を雑にまとめると、こんな感じ。
①再建法隆寺は、聖徳太子の怨霊を封じ込めるために、藤原氏(とくに不比等)によって建てられた寺である。
②聖徳太子の子の山背大兄王とその一族を殺害した黒幕は、中臣(藤原)鎌足であった。
③それゆえに、藤原氏一族は、聖徳太子の亡霊、怨霊におののかなければならなかった。
④再建された法隆寺は、太子の怨霊封じの場ととして造営され、寺僧は怨霊の牢番であった。
⑤法隆寺についての様々な事実は、このことを明らかにしており、夢殿と救世観音像は太子の怨霊封じのためにつくられた。
とくに「夢殿の救世観音」に関わる論考を展開する「第7章」の項目は、こんな感じ。
第七章 第六の答(夢殿について)
東院伽藍を建立した意志は何か
政略から盲信へ―藤原氏の女性たちの恐怖
夢殿は怪僧・行信の造った聖徳太子の墓である
古墳の機能を継承する寺院
フェノロサの見た救世観音の微笑
和辻哲郎の素朴な誤解
亀井勝一郎を捉えた怨霊の影
高村光太郎の直観した異様な物凄さ
和を強制された太子の相貌
背面の空洞と頭に打ちつけた光背
金堂の釈迦如来脇侍・背面の木板と平城京跡の人形
救世観音は秘められた呪いの人形である
仏師を襲った異常なる恐怖と死
なんか、懐かしいなあ。
これを読んだころを思い出すと。
梅原さんは該博な知識による大胆な仮説により、「梅原古代学」「梅原日本学」「怨霊史観」と言われる独特の歴史研究書を多数著していますが、彼の思想の全貌はなかなかつかめません。ちゃんとした評価をされているのだろうか。
梅原さん自体を研究・評価することはとても興味深いのですが、今から僕が踏み込むのはちょっと危険だな。あんまり時間もないしなあ。
こういうのをポチってしまう可能性がある。
置くとこもないしなあ。(たしかご近所の図書館にあったような。)
というわけで、夢殿をあとにして、ほぼ東隣の中宮寺の、もう一体の仏様に会いに行きましょう。
以下次号。