にこたろう読書室の日乗

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0530 起床 気分快 晴 舞鶴・北滋賀遠征記録⑦「菊月」の単装砲と東郷平八郎邸を見に行く話。

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舞鶴・北滋賀の旅の記録の続きです。⑦は、近くの神社に寄ってから、東郷元帥の邸宅を見に行く話です。

 

【10月2日(日)その1

 

ホテルから南に15分ほど歩いて、大森神社(彌加宜神社)を訪ねます。「みかげ」と読みますが、地元では大森神社で通っているようです。

ここには、あるものが保存されています。

こういう事情です。

 

太平洋戦争でソロモン諸島沖に沈んだ旧海軍の駆逐艦「菊月」の砲身が2020年6月27日、京都府舞鶴市森の大森神社に奉納された。

砲身は一般社団法人「菊月保存会」(千葉県)が現地で引き揚げ、建造の地・舞鶴市で修復保存していた。

戦争や舞鶴の歴史を物語る貴重な資料が、平和への祈りを込めて古里の神社の境内に設置された。

 

「菊月」は、睦月型駆逐艦の9番艦。イギリス駆逐艦の模倣から脱却した峯風型、神風型の流れを汲む最後の艦型で、日本の駆逐艦として初めて61cm魚雷発射管を搭載した。

12隻が建造され ( 睦月、如月、彌生、卯月、皐月、水無月、文月、長月、菊月、三日月、望月、夕月)、すべて太平洋戦争で沈没した。

 

このように、駆逐艦には同型の姉妹がたくさん存在します。

1番艦をネームシップと言って、これをまず鋭意建造し、良ければ各地の造船所で並行して増産するわけです。

ネームシップの「睦月」は佐世保海軍工廠で造られましたが、「如月」と「菊月」は舞鶴で建造されています。

 

上の記述中の、「すべて沈没」は微妙で、「菊月」だけは下の写真のように、擱座・着底して、その船体の一部は水上に出ています。だから砲身を引き上げられたわけですね。

 

古い艦なので「45口径三年式12cm単装砲」が4門実装されていて、これはその第4砲塔のようです。

 

菊月は1926(大正15)年に舞鶴海軍工作部で建造され、42年にソロモン諸島沖で米軍の攻撃を受けた。現地では現在も、海上に船の一部が出た姿を見ることができる。

戦争の史実を伝えるため、同保存会が現地や関係機関の許可を得て2017年に重さ約3トン、長さ5・4メートルの砲身を海中から引き揚げ、舞鶴市に運搬。市内の工場でさびの除去や塗装を施し、設置場所を探していた。

 

菊月の最期については、以下の通り。

 

1942年(昭和17年)4月29~30日の珊瑚海海戦の直後、5月4日午前5時30分、米空母ヨークタウンから発進した攻撃隊のTBD艦攻8機が旗艦「沖島」を包囲して雷撃を敢行し、このうち魚雷1本が「沖島」から離れたばかりの「菊月」右舷機関室に命中。12名が戦死し、22名が負傷した。「菊月」は第563号駆潜艇となっていた特設駆潜艇「第三利丸」に曳航され、ガヴトゥ島ガヴトゥソロモン諸島中央州にある小さな島で、長さは約500メートル。ンゲラ諸島のひとつ。の海岸に擱座した。

 

Googleマップだとここです。

上記の記述にはなにか情報に錯誤があるようで、実際はガヴトゥ島よりもう少し東のTaroaniaraというところですね。

 

砲身を見たあと駅前に戻って、東郷平八郎邸を見に行きます。今日は公開日です。

工廠の隣の丘の上ですのでちょっと遠いから、ここはタクシーで。

駅の構内には舞ちゃんが立ってます。

 

この鎮守府司令部の建物は残念ながら残っていません。

民間に売却してしまったからですが、海自が確保した東郷邸は綺麗に残っているので、対にして保存したら良かったのにね。

この建物は、明治34年10月1日に舞鶴鎮守府が開庁され、東郷平八郎中将 (当時55歳)が初代司令長官に親補され、明治36年10月19日、常備艦隊司令長官 になるまでの2年間にわたり過ごした官邸で、以来歴代長官の官邸として戦争終戦時まで使用されてきた由緒ある邸宅です。

 

微妙にエンボスがある「明治ガラス」の窓。
そう言えば、引揚記念館に行く途中、旧海軍の第三海軍火薬廠の跡地に日本板硝子舞鶴工場が進出しているのを見ました

 

木造平屋建で一部洋館となっており、裏庭には長官が「一心池」と命名した心の字の形をした池も立派です。

各種要人を迎えたり、鎮守府の会議室としても使われました。

水交社OB のかたが、とても丁寧に案内・解説をしてくださいます。

いろいろ質問したりしたので、けっこう長い間ここに居ました。

 

東郷邸の目の前の高台が鎮守府司令部のあったところですが、いまはこんなアパートが立ってます。長官はここへ出勤したわけですから、いわゆる職住接近ですね。

 

司令部の目の前には、こんな風景が見られます。

関学校大講堂(海軍記念館)の緑の屋根。

速吸桟橋の停泊艦艇。

 

この後、徒歩で赤れんが博物館に戻るのですが、以下、次号。