にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0600 起床 気分快 晴 サルには「こんにちわ」はあるが、「さようなら」はない。別れの挨拶があってはじめて我々はその人の「死」を実感することになる。「ヒト」を定義します。

血圧値 123/85/69 酸素飽和度 98% 体温 36.3℃ 体重 66.2キロ

 

今日の未明ころ、とても綺麗にオリオン座がみえていました。

スマホではわかりにくいかな?

 


あの三つ星の微妙に曲がった配列は、エジプトのギザの3大ピラミッドと符合する、という説があります。

 

 

面白いけど、地軸は揺れてるから、3000年前に三つ星があの配列に視えたかどうかは、怪しいんじゃないかな。

そうでもないのか。

 

星座は悠久の時の流れを考えさせてくれます。
それに比べて、ほんの一瞬のいのち。

その先に来る「死」を見据えることは、ひるがえって「生」を意識し直すことに繋がります。

 

夜が明けて、爽やかな秋空。

雲が高いですね。

 

 

悠久の昔から人間は「死」を恐れます。

これは生きものとしての人間の、根源的な感情のように見えます。

 

では、ほかの生き物、例えば人間にとても近い存在に思える霊長類(まあ、サルですね)はどうなんでしょうか。

 

サルは、死を恐れるのか?

アリとかキリギリスは?

 

ところで、「ゾウは葬式をする」という話があります。

アフリカに生息するゾウの観察事例で、他個体の死体に非常に強い関心を示し、時間が経って白骨化していてもその現場を訪れてしばしの時間を過ごし、時に「涙を流す」こともある、というものです。

 

また、サルとヒトの中間ぐらいの(この言い方は厳密には間違っていますが)原始人なんかはどうなのか。

 

世界史の教科書には、現在では、西ヨーロッパ全体で20カ所ほどの墓地遺跡から発掘された証拠に基づき、大半の人類学者が、現生人類に進化上最も近縁の種であるネアンデルタール人が、少なくとも時には死者を埋葬することがあったということを認めている、と書いてあります。

 

ネアンデルタール人は「死者に花を供える文化があった」は勘違いだった - ナゾロジー

 

イラクのシャニダール洞窟からは約6万年前のものと推定される埋葬人骨が出土しており、その土の中からキンポウゲなど8種類の花の破片と花粉が発見されたことは世界的にも注目を集めました。

親しい人の遺体を土に埋めて、草花を供えるネアンデルタール人。ちょっといい話です。(最近、この花粉については怪しいという意見もあります。真の犯人は、土に巣を掘るハチだったかも)

 

「埋葬」とはなんなのか。どういう精神のありようから生まれた儀礼なのか。

 

「ヒトの死と生には同一(等身大)の価値があり、埋葬の儀礼によって死者をあの世に送り出すことで新たな生命を授かること(=死者と生者の交換)ができると考えたのではないか、それが『宗教』の始まりではないか」「その新たな生命の送り手が肥大化し、絶対的な存在となったものが、広い意味での『神』だったのではないか」

という考え方があるそうです。

 


とても興味深い話です。僕はこの本をまだ読んでないけど。

 

人類学で言う「贈与交換論」的なアプローチですね。

アリとかキリギリスには、たぶんそういう考えはない。

 

ホモサピエンスが獲得した、高度な概念操作能力のなせる業ですね。

 

ヒト以外の霊長類動物において、「死」の概念があるかどうかは未だに論争の的になっています。

ただ、サルには「死」の概念がないと考えている研究者のほうが多数派のようです。

 

これについて、面白い話題が。

 

霊長類における死生学研究で最も注目されている行動のひとつに、「死児運搬」と呼ばれる行動があります。

 

 

これは、死亡した乳児の死体を、母親が何日にもわたって運び続けるという行動です。

高崎山ニホンザルの6000例を超える出産の観察のなかで、157例の死児の運搬が見られたそうです。

生まれてすぐに死んだ子は持ち運ばない。生まれて1日でもしがみついていると,約10例に1例の割合で死児を運搬する。ただし盛夏では腐りやすく,そう長くは持っていない。

おとなが亡くなっても、だれも持ち運んだりはしない。しかし2歳半までの子どもが亡くなると、母親は必ず持ち運んだ。

 

これは死を弔う意識の芽生えが、サルという人間以外の動物にもある、ということの証拠なのでしょうか?

 

残念ながらそうではないようです。

つまり、サルは「死」を理解できない。

よって、「死」への畏れも。理解できない。

 

霊長類学者豊田有先生の知見。

 

チンパンジーの社会において、出会うときには定型的な挨拶があるものの、別れる際の明確な挨拶はないといいます。逆に、再び出会った個体とは挨拶をし、関係を維持しようとしますが、もう会わなくなった個体との関係はそこで断絶してしまうのです。

たとえそれが死別であったとしても。」

 

「死を恐れるのは人間だけ」…サル研究者が“タイの森の中”で見た「驚きの光景」(豊田 有) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

ところが人間は、出会いと別れの挨拶を明確にもっています。

 

それは、日常的な出会いと別れから、命の誕生から死別までという長期的な視点に立ったものまで様々。

 

死による最後のお別れの挨拶が、死者を弔う儀式です。

儀式という別れの挨拶があって、はじめて我々はその人の「死」を実感することになる。

 

気もちが「かたづく」、ということですね。

 

 

「死別における別れの挨拶は、遺された者から死者への一方的なものです。死者から遺された者に挨拶をすることはできません。

この一方向性こそが、「死」を恐ろしく感じる根源ではないでしょうか。

自らに最期の時がやってくるのは数十年先かもしれないし、来年かもしれないし、あるいは明日かもしれません。

「死」のタイミングは自分で支配することができないという予測不能性と、最後に他者と別れの挨拶ができないという無念さ(一方向性)が「死」の恐怖の克服を困難にしている一因かもしれない、と思うのです。」

 

豊田先生のこの言葉を敷衍して、人の人たる由縁を定義します。

 

「ヒト」を定義します。

 

ヒトとは:

死を理解し恐れるもの、のことである。