血圧値 129/84/70 酸素飽和度 99% 体温 36.4℃ 体重 66.7キロ
11月に入って、毎日良いお天気ですね。
ようやく、「普通の季節」、が戻ってきたみたい。
こんな感じで連休を取れる人もたくさんおられるかも。
楽しみですね!
さて。
31日のハロウィンの日に僕が着ていたロングTシャツの文字について。
ご質問をいただいたので、少し補完します。
0600 起床 気分快 晴 ハロウィンは単なる暴動か? 僕は結局、PicaPica ハロウィン。そして神は永遠に幾何学する。「一線断時落落磊磊」。 - にこたろう読書室の日乗
「生死去来棚頭傀儡一線断時落落磊磊」
(せいしのきょらいするは ほうとうのかいらいたり いっせんたゆるとき らくらくらいらい)
これは「しょうじ」と読むこともあるらしいがどちらが良いの?、というご質問がありました。
まったくおっしゃる通り。
世阿弥の能は、仏教的(とくに禅宗的?)宇宙論に裏打ちれていますから、仏教用語としての「生死」は、漢音ではなく呉音(三国時代の呉があった南部の地方)で読むほうが妥当でしょう。
僕が持ってるテキストはこれですが、やはり「しょうじ」と読んでます。直しても良いのですが、ネットではどうやら漢音(中国北部の発音)で流通しているみたいでしたので、そのままにしました。
室町時代初期の当時の芸能関係の第一線の構図は、こんな感じ。
世阿弥って美男子、BLなのか?
義満社長大丈夫か!
あとで訴えられたりしないのか。
他人事ではないのよ、今の日本では。
分かりやすい記事があったので、ご参考までに。
道元禅師のこの名文も、やはり「しょうじ」ですね。
生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし。
但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし。
是時初めて生死を離るる分あり。唯一大事因縁と究尽すべし。
【修証義総序】
0600 起床 気分並 晴のち曇ときどき雨 なんとか僕たちは、目の前にある「今日」を生きていく。 - にこたろう読書室の日乗
ついでに、確認しておくと。
世阿弥『花鏡』の第14条「万能綰一心事」の原文はこんな感じ。
「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落落磊々」。是は、生死に輪廻する人間の有様をたとへ也。棚の上の作り物のあやつり、色々に見ゆれ共、まことに動く物にあらず。あやつりたる糸のわざ也。此糸切れん時は落ち崩れなんとの心也。申楽も、色々の物まねは作り物なり。これを持つ心はなり。此心をば、人に見ゆべからず。もし見えば、あやつりの糸の見えんがごとし。返々、心を糸にして、人に知らせずして、万能を綰ぐべし。如此ならば、能の命あるべし。
これもなかなかの名文。
意味はこんな感じ。
「生と死が去ってまた来る、棚から吊った操り人形が、その糸を切るやいなや、ガラガラと崩れ落ちるように」。
これは生と死の輪に巡らされる人間の有様を、たとえたものだ。棚の上の操り人形はあくまで作り物であり、さまざまに動くけれど、本当に生きているのではない。操りの糸のせいだ。この糸が切れたならば、崩れ落ちるだろうとの意味である。
猿楽の劇の演技も、いろいろの物真似は本来、意識的模倣にすぎない。これを保つのは内面である。この内面の気構えを、他人に悟られてはならない。もし見せてしまえば、操りの糸が見えるようなものだ。絶対に、内面を糸にして、見物にはしらせず、すべての芸の部分を統率せよ。このようにできるならば猿楽の劇の役者として本物であり、演技も生きるだろう。
ここでちょっと引っ掛かるのは、「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落落磊々」の部分、世阿弥の言葉ではなく、なにかの引用である、というところです。
このままでは出典が分からない。
「しょうじ」決め打ちで良いかどうか。
世の中、よく勉強・研究されるかたが居るもので、今では月菴宗光という室町時代のお坊さんの書いた本(『月菴和尚法語』の中の示宗三禅閣という節)の中の一節だということが分かっています。拍手。
月菴和尚法語(げったんおしょうほうご)
「如此、行住坐臥、一切作用ノ時、忘ルル事ナク、怠ル事ナク、急々ニ眼ヲ付ケテ、ヨクヨク極メテ看ヨ、必ズ忽然トシテ一笑ノ時節アルベシ。重ネテ一偈ヲ示ス 生死去来~」
仏教文献なので「しょうじ」で確定ですね!
あと、世阿弥さんは「棚頭(ほうとう)」を「棚の上の作り物のあやつり」と考えているんだけど、これは間違いらしい。
ていうか知らなかったんだと思う。
「棚頭」は人形浄瑠璃を載せた山車のことです。
イメージとしては、こんなかな。
なにか観に行きたいなあ。
ハリーポッター スタジオツアー東京も行きたい。