血圧値 133/84/66 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 68.9キロ 運勢 Wheel of Fortune
前回のクイズの答え。
「努力する天才」と呼ばれた昭和の将棋指しとは?
0630 起床 曇 「努力する神様」は「冷えピタ軍曹」の夢を観るか。藤井さんは最近、ちょっと人間化してきたかな。 - にこたろう読書室の日乗
まず今の人は知らないだろうなあ。
振り飛車の急戦はあまり流行らないから。
居飛車側は穴熊囲いからの持久戦が主流ですからね。
昭和の大山15世名人時代の振り飛車が懐かしい人は、「山田定跡」を知っていますね。

5三銀左型から7五歩を突き捨てて6四銀と出る。
これを「斜め棒銀」と言うこともある。
後手番でも先攻する作戦です。振り飛車もいろいろ対応ができるので、最近この形の実戦はあまり見ません。6五歩の捌きがあるし、先手の美濃囲いが固いのに比べて、後手玉が薄いのが心配。
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山田道美(やまだ みちよし, 1933–1970)は、昭和期の将棋界で「努力する天才」と称された代表的棋士の一人です。
彼の最大の特徴は、徹底した研究量と理詰めの思考にあります。
いわゆる感覚型ではなく、局面を深く読み切る「論理の人」であり、盤上の一手一手を極限まで検討する姿勢で知られました。
当時のトップ棋士である大山康晴にも互角以上に渡り合い、実力的にはタイトル獲得に最も近い存在と目されていました。

(これ氷柱というモノでしょうか)
特に有名なのが、後に「山田定跡」と呼ばれる研究群です。
これは居飛車対振り飛車などの序盤戦術において、従来の常識を更新する精緻な分析で、彼の長年の蓄積から生まれました。つまり彼の「ひらめき」は、すべて膨大な努力の帰結だったわけです。
また人物面では非常に誠実でストイック。
将棋に人生を捧げるような生活を送り、妥協を嫌う姿勢は周囲から畏敬を集めました。一方で、その過剰なまでの自己要求が心身に大きな負荷を与えたとも言われています。
1970年、36歳という若さで急逝。
もし長く生きていれば名人位は確実とも評され、「幻の名人」とも呼ばれます。

総括すると、山田道美とは、才能を努力で極限まで純化した棋士であり、将棋における「努力=創造」の典型例を体現した存在です。
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「1970年6月6日、棋聖戦の挑戦者決定戦で大山名人と山田八段が対戦した。大山の三間飛車に山田は棒銀で攻め込み、激しい攻防を繰り広げた末に、大山は強靭な守りで山田の攻めを封じて勝った。両者は夕食休憩で、将棋界の将来を語り合った。互いの考え方を理解し合うようになっていた。それから12日後の6月18日、山田は難病によって36歳の若さで急逝した。山田が存命だったら、以後の将棋界の地図は大きく変わっただろう。」(田丸昇九段の話)
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『3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代』の「美崎智彦八段」として登場。

「美崎智彦八段。旧華族の出で、美しい将棋を信条とする。幼いころから体がよわく、兄弟が戦地におもむくなか、病床に臥せていた。そんなかれは、だれもが平等に戦える将棋に魅せられた。ゆえに美崎はことに勝負への執念がつよく、名人を倒すために研究会をたちあげるなど、まさに異能の棋士であった。
そして、名人の得意とする「振り飛車」に対し、「居飛車」でそれに立ち向かうために編み出された、いわば“美崎定跡”がくりだされる。当時の手としては斬新すぎるものであり、神宮寺も追い詰められていく。しかし、美崎の心臓がもたず、あと一手で神宮寺を倒すというところで力尽き、盤上に倒れ伏す。その手をしっかりとつかんで絶叫する神宮寺。「勝負は ここからだろうがぁ!?」」