にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0600 起床 気分快 晴 「女性の抑留者」について。事実のみが語ることに僕たちは耳を傾けるしかありません。

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梅雨が明けて、本物の夏が始まります。

ずっと前から暑かったけど。

 

 

8月15日がまたやってきます。

各種ニュースが終戦の日の特集を準備していることでしょう。

 

戦後、旧ソ連軍によって57万人以上の日本人が連行され、強制的に働かされたシベリア抑留。

その中に「女性」も含まれていたことはあまり語られていません。

 

シベリア抑留には看護婦や電話交換手ら女性もいたことが知られているのですが、軍人と比べ、資料が乏しいのです。

 

二つの情報をご紹介します。

 

①シベリア抑留 看護婦の証言

2014年(平成26年)7月26日(土曜日)読売新聞 

 

広島市在住の高亀(旧姓・林正カツエ)さん。

28才だった1943年7月、日赤広島支部から旧満州北東部のチャムス第一陸軍病院に配属。45年4月からは現地の高等女学校卒業生らを看護婦に養成する教育隊の班長に就いた。

 

チャムスは松花江岸にあり、ハルビンと撫遠との中間に位置し、東満の一大都市である。

 

https://livedoor.blogimg.jp/shosuzki/imgs/9/0/90e72c55.jpg

 

ソ連軍の侵攻を知ったのは8月9日未明。

爆撃音が鳴り響き、入院患者の移送後、逃避行が始まった。

 

上司の大尉に呼ばれて渡されたのは、100人余りの隊員全員分の青酸カリ。もしもの時のためだった。

 

髪を短く刈り、軍服姿になって胸ポケットに青酸カリを忍ばせた。

ソ連軍はすぐに部隊を取り囲んで全員を捕虜にし、「女性を差し出すように」と強要してきた。


司令部がソ連将校に懇願して難を逃れた。だが、8月末、女性部隊で夜道を移動中、ソ連兵の四輪駆動車が近づいてきて、一人の隊員が車に連れ込まれた。

 

戦地の勤務経験があった班長の高亀さんは最後尾にいて、「もう歩けない」という年下の隊員を励ましていた。点呼をとると、拉致されたのは同じ班の班員と判明。
草むらで亡くなっていたことが約50年たってからわかった。


「『班長殿、助けてっ!』という悲鳴が今も耳に残っています。」 思い出す度、涙がこぼれる。

 

厳寒の収容所生活

45年10月、女性部隊は、ハバロフスク郊外の将校収容所を経て、山奥の収容所へ移送され、「囚われの身を思い知った。」

 

自動小銃を構えたソ連兵の監視の下、薪取りと農場でのジャガイモ堀の毎日。素手で雑木を折ったり、土を掘り返したり。
凍てつく寒さで感覚を失った手から血が流れた。

食事はコーリャンに水を加えて炊き、上澄みの汁をすする。床に毛布を敷き、仲間と体をくっつけ合って寝た。

ソ連兵が「ダモイ」(帰還)と触れて回り、喜んで荷物を持って出て行くと、ウソで腕時計や万年筆を没収された。しばらくして、発熱と下痢に襲われた。


意識もうろうとなり、やせこけた日本兵らと一緒に病院送りとなった。

 

ソ連婦長の看護


気がついたのは、ソ連の婦長から風呂に入れられている時。
栄養剤をスプーンで口に運んでくれ、元気になった。
「あの手厚い看護がなければ、命を落としていたかも。」

 

病院では、収容所の記録で高亀さんが看護婦と知っていた。別の病棟の婦長から「静脈注射ができるか」と聞かれ、約80人の日本兵が入院していた内科病棟を手伝うことになった。

彼らから「収容所で戦友の死体がトラックに薪のように積まれ、何台も運び出された。自分たちは生き残りだ。」と聞き、懸命に働いた。

婦長に拉致された隊員のことを話したら、「自分も戦火に追われて体一つで逃げてきた。親も兄弟も家もない。あなたは帰る家があり、必ず帰れるのだから。」と言われた。

戦争の犠牲は戦勝国も変わらないことを知った瞬間だった。

 

47年6月、婦長から帰国指令を聞いた。

 

 

案じていた女性隊員らと日本への出発港のナホトカで再会した。周辺の病院や収容所に分かれ、働いていた。

 

 

舞鶴港に引き揚げ、原爆投下の惨状が残る広島へ。1年10か月の抑留を終えた。

 

 

戦後も、広島赤十字・原爆病院の総婦長や夫の歯科医院の手伝いで看護婦を続け、2人の娘を育てた。

 


「捕虜イコール軍人、男という観念が強く、女性の抑留者は忘れられがちな存在だった」と、シベリア抑留研究の第一人者、富田武、成蹊大名誉教授。

 

全国抑留者補償協議会会長だった故斉藤六郎氏が著書で<二百数十名の女性が抑留され、うち三十数名が受刑者だった>と記しているが、総数ははっきりせず、1000人以上との説もある。

捕虜にされたのは、軍や特務機関にいた看護婦や電話交換手、タイピストら。通訳らはスパイ容疑をかけられ、「戦犯」にされた。
抑留中に死亡したり、ソ連に残留して帰国できなかったりした女性もいた。

 

ロシアから提供された70万件の捕虜登録記録カードを保管する厚生労働省は、生別の分析をしていない。

 

②100歳が語る「シベリア抑留」 367人の女性も強制連行された 2023年8月20日(日) 08:00RSK 山陽放送

 

「そこに女の子が行くとは夢にも...」100歳女性語る“シベリア抑留” 極寒の地に367人の女性がいた事実 | TBS NEWS DIG (1ページ)

 

(シベリアに抑留された 市川輝子さん)「そんなところに行くとは夢にも思いませんでした。女の子がね…。寒いからね、着るものもないしね。大変でしたよ」

 

 

20歳で満州に渡り、事務の仕事をしていた市川さんは、1945年、22歳の時に女子挺身隊として召集されました。

看護師不足を補うため、約150人の女性が看護師助手となり、そのまま、日本軍とともに抑留されたのです。

 

「何が何だかわからないうちに。戦闘帽をかぶって大きなマスクをしてね」

 

酷寒の地で市川さんはまず、薪拾いやジャガイモ堀りに駆り出されたといいます。

「ジャガイモは本当は全部出さないといけないんですよ、兵隊さんがいるし。だけどポケットに入れて帰る」

「男の人がそれを見つかったらやられる。女の子だから(ソ連の)兵隊さんも遠慮してたたかなかったんだと思う」

 

 

市川さんたちは約2年後帰国を果たしましたが、故郷に戻っても「ソ連兵に強姦されたのでは」といういわれのない言葉を投げかけられました。

「『誰がそんなこと言っとったん』と文句を言いに行く。『誰かがそういうことをしているのを見て帰っているのか』と。『その人のところへ連れて行ってちょうだい』と。向こうの人は何も言わなくなる」

 

「忘れはせんけど…70何年経っているということは、ほとんど死んだな。私が生きているけど、岡山では私と…」

「日赤の看護師さんは全員死んだし…」

 

「戦争はしたらダメ。戦争をしていいことはない。お互い、負けた国も勝った国もよくない」

 

 

事実のみが語ること、に僕たちは耳を傾けるしかありません。

それがこれからをまだ生き続ける者の使命です。