にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0630 起床 晴 【僕の生涯の7つの場所4:渋谷界隈】① 広尾から川沿いに遡って『渋谷』を目指します。スタートは天現寺橋です。

血圧値 131/82/66 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 67.1キロ 運勢 The Fool

 

「僕の生涯の7つの場所」を考える場合、「渋谷界隈」は外すことができません。

しかし、最近のこのあたりの変貌ぶりは、ちょっと複雑な感情を呼び起こします。

 

これはなにが起きているのだろう。

 

 

僕が生まれた目黒区の旧清水町(今の目黒郵便局付近)からは、この「渋谷」という場所が、バスや電車で行けるもっとも身近な大都会でした。

つまり、こどもの頃の僕にとって「都会」といえば「渋谷」でした。

 

 

親にデパートに連れて行ってもらって屋上の遊園地で遊ぶとか、大食堂でお子様ランチを食べるとか。

 

(さすがにこれは見たことありませんが)

 

そのうち一人でも映画館に行くようになるとか。

大学生になってからも、やはり渋谷がもっともよく遊びに行った場所だったのです。

 

五島プラネタリウムも行ったなあ。

番組の終わりにギュイーンと天球が動いて、夜空に身体ごと吸い込まれるような感覚が面白かった。

 

 

こういうリーフレットでした。

 

五島プラネタリウム見学 臨川幼稚園_1970年(昭和45年)7月1日_P030K141

 

懐かしいなあ。

 

 

さて、この「渋谷」という場所について、どこからお話を始めましょうか。

とりあえず、「氷川神社繋がり」で、広尾辺りから「渋谷川」沿いに遡ってみましょう。

このルートはちょっと地味なアプローチですが。 

 

当時、僕が家から渋谷に行こうとすれば、電車の場合は、学芸大学駅~祐天寺~中目黒~代官山~渋谷という東横線ルートが定番でした。

 

 

あと、目黒通り~恵比寿~渋谷というバスで行くルートもありました。これも東急バスがメインだったので、あの頃は東急王国全盛期だったのです。

 

20230301_00.jpg

 

もう少し昔だと、都電が走っていましたね。

 

 

祖母といっしょに、何回もこの都電に乗った記憶があるのです。

(あの時はたいていは祖母に連れられて麻布十番温泉に行ったのではなかったかな)

 

(1965年頃の麻布十番付近)

 

白金氷川神社から古川の四ノ橋に出て、ここからこの川を明治通り沿いに西側に遡ると、天現寺橋という交差点に出ます。

 

ここから広尾駅までの外苑西通り(418号)は港区と渋谷区の境界線ですから、ここの角にある天現寺は厳密には港区です。

道を渡れば「渋谷界隈」ですから、まあ、ここでは一緒に扱います。

 

地下鉄の広尾駅の近く、有栖川記念公園の南側にある「廣尾稲荷神社」。

 

 

社伝によると、慶長年間(1596年-1615年)に創建。
二代将軍・徳川秀忠が鷹狩をした際に当地に立ち寄り、稲荷神を勧請したといいます。

 

 

拝殿天井には龍が描かれており、これは日本洋画家の先駆、高橋由一の日本画最後の作で、港区指定文化財となっているそうです。

 

当時の広尾周辺は萩の名所として賑わったといいます。
萩の花が地を舐めるように咲き乱れていた事から「ハギナメ稲荷」とも称されました。

 

 

お隣には、荒神塔。

 

 

左手に「青木坂」を見ながら右に折れて明治通りに向かいます。

江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったためにこう呼ばれるようになりました。

 

そして、「天現寺」へ。

 

 

渋谷川および笄川の合流点(合流点より下流は古川)の近くに立地し、門前に天現寺橋があります。

近辺に明治通りおよび 外苑西通りが交差する天現寺交差点があり、東方には首都高速道路天現寺ランプがあり、現代でも交通の要所です。

 

 

四の橋から麻布氷川神社にかけては、別稿で書きました。

 

0630 起床 曇 【「江戸七氷川」探究】③ セーラー・マーズのあの神社、「麻布氷川神社」にも寄ってみる。 - にこたろう読書室の日乗

 

(江戸名所図会)

 

臨済宗大徳寺派寺院の天現寺は、多聞山と号します。

天現寺は、小日向御箪笥町にあった普明寺の名跡を継ぐ形で、祥雲寺11世良堂和尚が開山となり、多聞山天現寺と号して享保4年(1719)に創建したといいます。

良堂和尚は、その後品川東海寺54世に転住、本山大徳寺293世も勤めた名僧です。

 

本尊として聖徳太子の御製と伝えられる毘沙門天の木像(樟の丸木作り、高さ三尺一寸(実寸103.5cm))を祭ります。

秘仏になっていて、特別な機会以外は観ることができません。残念。

 

毘沙門天はもともとインドのヒンドゥー教の神であり、もとは富と繁栄をもたらす神「クベーラ」でした。

 

(ジャムバラあるいはクベーラ坐像 インドネシア 中部ジャワ時代・8~9世紀)

 

仏教が伝わる過程で「四天王」の一柱である戦いと守護の神としての側面が強調され、中国を経て日本に伝わりました。

日本では主に、武運長久をもたらす神として、特に武士からの信仰が篤くなりました。

 

日本において、毘沙門天は七福神の一柱としても崇敬され、財運や守護、商売繁盛のご利益があるとされています。そのため、毘沙門天の置物を商業施設や家に置くことで、繁栄と守護を祈る人も多く、現代でもスピリチュアルな面での人気が高い神様です。

 

「クベーラ」の発音が「クンビーラ」→「金毘羅(コンピラ)」と変化して、財宝神・金毘羅様と習合したのも面白いですね。

 

「毘沙門天王功徳経」によれば、こんな感じの仏様です。

 

「毘沙門天王はその数7万8千億と言われる諸仏の中でも、仏法を護る兵士であり、左の手に宝塔を持っているのは、普集功徳微妙と言って、宝塔の中には8万4千の教えと12部経が納めてあり、それを見る者は大いなる智慧を得ることが出来、右の手に如意寶珠を持っているのは震多摩尼珠寶と言って飲み物、食べ物、衣服などの無限の財宝が湧き出し、体に甲冑を付けているのは、仏道修行の妨げとなる四魔の軍を防ぎ、邪鬼は悪業や煩悩を押さえつけるために踏んでいる。

また藍婆と毘藍婆と言う2匹の鬼を従え、左の脇には天女がいて吉祥天女と言い、右の脇には1人の子供がいて善膩師童子と言う。もし毘沙門天王の姿を見たり名を唱えたり心に念ずるような者がいれば、果てしない輪廻転生の中で犯した罪を取り除いて、仏の位に至り、この世では無限の福を得ることができる」

 

日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例です。

 

多聞天像(東大寺金堂)

(多聞天像・東大寺金堂)

 

また境内には本堂、毘沙門堂、光孝天皇御陵のものといわれる石造の八重の石灯篭などがありますが、現在の寺域はそれほど広いものではありません。 

 

 

 

さて、天現寺橋の上から、渋谷川の上流と下流の方角を覗いてみます。

 

こちらが下流方面。右の森は慶應義塾幼稚舎です。

 

 

こちらが上流方面。

恵比寿を通って、渋谷駅の下に向かいます。

 

 

ここから明治通りを渋谷方面に向かいますが、その途中、「広尾原」と呼ばれた地域を通ります。

昔はこんな感じで、凄い田舎の風景ですね。

 

Image with no description

(天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』より)


「廣尾原」と記され、一面にススキのある原野が描かれています。

だいたいこの天現寺あたりから、恵比寿方面にかけての情景を描いていると思われますが、今とは比べることができない、まったく違う雰囲気です。

元禄の検地以前は、ツクシが沢山生えていた所から「土筆ヶ原」と呼ばれていたようです。

その後、葦や葭が沢山生えていた広い野原と言う事から「広野」と呼ばれるようになり、元禄検地(1688~1703)のころから「広尾」と呼ばれるようになります。
ただし何故、広野が広尾に変わったかを知る手がかりは定かではありません。

 

 

現在の光景。

ここから渋谷の中心地方面に移動しましょう。