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この前、三浦半島の浄楽寺に運慶の仏様を拝観しに訪れた記事を書きました。
0630 起床 気分快 雨 【逗子巡行】② 逗子に運慶仏を観に行きます! 三浦半島の鎌倉寺院、浄楽寺の奇跡。 - にこたろう読書室の日乗
ご質問がありましたので、運慶作とみなされる作品のリストを示します。
運慶はこれほど知名度が高い仏師であるにもかかわらず、その詳細は不明な点が多く、作品も真作と判明しているものはわずかです。
僕はこのジャンルについてはほぼ素人ですので、「一般的な見解のリスト」です、悪しからず。
今後、機会があれば、順次、実際に観ていきたいと思います。(確認次第、丸数字を赤色に書き換えます)
運慶研究の第一人者である、山本勉先生(鎌倉国宝館長・ 半蔵門ミュージアム館長・ 清泉女子大学名誉教授)によると運慶仏は目下13件31体とされています。
A:運慶作と確定している作品
① 奈良・円成寺 大日如来坐像(国宝) - 安元2年(1176年)10月。運慶の真作として確認できる最初の作品。手は智拳印を結ぶが、その位置は一般的な大日如来像よりかなり高く、それによって胸の前に複雑な空間が生じている。また、条帛をわざわざ別材で接ぎ合わせ、より現実に近い造形を試行している。台座蓮肉天板裏面に運慶自署と思われる墨書銘があり、これに拠り運慶は本像を11か月かけて制作し、仏像本体の代金として上品8丈の絹43疋を賜ったことがわかる。当時この仏像のような等身大の像の制作期間はおよそ3か月程度とされ、それよりも遥かに長い日数をかけて造仏していることから、運慶が他の仏師の助力を得ず独力で制作したと考えられる。願主ではなく仏像を作った仏師自らが名を記した現存最古の例としても貴重である。この銘文は大正10年(1921年)に発見され、近代的な運慶研究の端緒となった。
② 静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(国宝) - 文治2年(1186年)(不動・二童子・毘沙門天像像内納入木札墨書)。5体は2013年(平成25年)に国宝に指定された。
*毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)
像内に納められていた五輪塔形の銘札の墨書から、文治2年(1186)に北条時政の発願により運慶が造ったものとわかる。北条氏の本拠地である伊豆韮山に創建された願成就院(がんじょうじゅいん)に安置されている5体のうちの1体。引き締まった体で左に腰を捻って立ち、力がみなぎって今にも動き出しそうである。武将のような顔つきも毘沙門天像にはめずらしい。奈良と伊豆のどちらで制作したかは不明だが、願成就院の像には運慶の独創性がいかんなく発揮されており、この時までに独自の作風を樹立したことが知られる。鎌倉幕府の御家人にこの作風が喜んで迎えられ、東国が慶派仏師の活躍の場になった。
③ 神奈川・浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重要文化財) - 文治5年(1189年)(不動・毘沙門天像像内納入木札墨書)。像底に「上げ底式内刳り」を採用した最初の例。一般に寄木造の仏像は、内部を入念に内刳りして椀を伏せたような構造になっている。納入品は台座の上に置かれ、それに被せるように仏像が安置される。そのため火事などの緊急事態に遭うと、像だけが救い出されても納入品はそのまま置き去りにされて失われてしまいがちであった。そこで運慶は、内刳りに際して膝の上の高さで像の底を刳り残して、納入品が像内に封入されるように工夫した。単純な工夫であるが、他派の仏師たちがこの構造を採用するようになるのは鎌倉時代後半になってからである。
不動明王立像と毘沙門天立像に納入されていた銘札により、鎌倉幕府の有力な御家人である和田義盛とその夫人の発願により、運慶が造ったことがわかる。阿弥陀如来坐像および両脇侍立像は肥満した体と生気のある表情で存在感と現実味に富む。不動明王像と毘沙門天像は、願成就院像の斬新に比べて古典的である。両者の違いの理由は不明だが、発願者の好みを反映したとも考えられる。
④ 奈良・東大寺南大門 金剛力士立像(国宝) - 建仁3年(1203年)。運慶が中心となり、快慶、定覚、湛慶ら一門の仏師を率いて制作。(『東大寺別当次第』、阿形像持物金剛杵墨書、吽形像像内納入経巻奥書)
⑤ 奈良・興福寺北円堂諸仏 - 建暦2年(1212年)。『猪熊関白記』の記事により運慶一門の作であることがわかる。弥勒仏及び両脇侍像、四天王像、羅漢像2体(無著・世親像)の計9体の群像であった。ただし、両脇侍像は失われ、四天王像も所在不明である(もと興福寺南円堂に安置され、同寺中金堂へ移動した四天王像を旧北円堂像とする説もある。弥勒仏像台座反花内側の墨書に各像の担当仏師の名が記されているが、判読不能箇所が多く、全容は不明である。
北円堂は、奈良時代に藤原不比等の供養のために建立されたが、治承4年(1180)の兵火で焼失、復興は遅れ承元2年(1208)にようやく造仏が始まった。弥勒如来坐像と両脇侍像、二羅漢、四天王像の造像は運慶統率のもと6人の子、4人の弟子たちが分担した。無著、世親は5世紀、北インドに実在した学僧で、法相教学を体系化したことで知られる。無著が兄、世親は弟であり、2体の像は老年と壮年に作り分けられている。2メートルに迫る巨体に厚手の衣を着け、大ぶりな衣文を作って重厚な存在感を表す。一方容貌は無著の静、世親の動と対照しつつ精神的な深みを加えている。世界的な傑作と言って良い。
弥勒仏坐像(国宝)運慶の指導のもと源慶、□慶(1字不明、静慶か)らが制作。
無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)運慶の指導のもと運□(1字不明)らが制作。銘文に判読不能箇所があるが、運慶の5男運賀、6男運助らが関与したと推定される。
以上の諸像の制作には、複数の仏師が分担して関与してはいるが、近現代の美術作品のように個々の芸術家の作品ではなく、工房主宰者である運慶の作とみなされている。
⑥ 神奈川・称名寺光明院 大威徳明王像(重要文化財) - 建保4年(1216年)(像内納入文書)。東寺講堂の模刻像で現在は水牛座が亡失し、同時に製作された大日如来像、愛染明王像は現存しない。伝空海作として子院一ノ室に伝来した。
B:運慶作と強く推定される作品
作風、納入品、伝来などから運慶ないし運慶工房作であることが強く推定される作品として次のものがある。
⑦ 奈良・興福寺 木造仏頭(重要文化財) - 文治2年(1186年)。興福寺西金堂(廃絶)旧本尊・釈迦如来像の頭部である。仏頭のほか、仏手と、光背にもと付属していた飛天・化仏が残っている。『類聚世要抄』に西金堂釈迦像を運慶が造立したことが記されるが、これと現存の仏頭等との関連についてはなお慎重な見方もある。
⑧ 和歌山・金剛峯寺 八大童子立像(国宝) - 建久8年(1197年)。『高野春秋』。ただし、8体のうち2体は南北朝時代の補作である。「運慶作の八大童子像」といわれますが、運慶一人で全て制作した訳ではなく、運慶監修の下、複数の仏師によって造られたと考えられています。
平安時代後期、12世紀作の不動明王像に随う八大童子として造られたもので、6体が運慶作、2体は後補である。八条女院という高貴な女性の発願だからか、経典で性悪とされる制多伽童子が理知的な顔に造られるのをはじめ、いずれも上品な姿である。玉眼は視線の強さ、あるいは聡明さなどを巧みに表し、生きているように見える。造像時の華麗な彩色もよく残っている。運慶作品の中でも完成度の高さで屈指の作である。
⑨ 京都・六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像(重要文化財) - 運慶が京都に建立した地蔵十輪院の旧像とする説がある。
⑩ 栃木・光得寺 大日如来坐像(重要文化財) - 建久10年(1199年)以前。東京国立博物館寄託。栃木県足利市にあった樺崎八幡宮旧蔵で、同八幡宮の前身である樺崎寺に伝わったものと推定されている。山本勉は、樺崎寺の縁起にみえる大日如来像が本像にあたり、作者を運慶と推定した。X線透過撮影により、他の運慶作品と共通する五輪塔、珠、人間の歯などの納入品の存在が確認されたことからも、運慶作である可能性が高くなっている。樺崎寺を建立した足利義兼の没年建久10年(1199年)が制作の上限とされるが、異説もある。
⑪ 愛知・瀧山寺 聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(重要文化財) - 正治3年(1201年)(『瀧山寺縁起』)
瀧山寺本堂に客仏として安置される三尊像で、いずれも桧材を用いた寄木造である。縁起によれば、本三尊像は源頼朝の三回忌に当る正治三年(1201)、追善供養のために鎌倉時代初期の著名な仏師運慶とその子息湛慶によって制作され、中尊の観音菩薩像は頼朝と等身に造り、像内には彼の鬢の毛と歯を納めたという。X線透視撮影によって頭部内に納入品の存在が確認されたが、目下何であるかは不明である。現在、像表面には後補の極彩色が施され著しく尊容を損ねてはいるが、木部は健全で、三尊共頭体の均衡がよく、充実した姿態を装飾性を加味しながら自然に彫成している。ことに中尊像は、文治五年(1189)運慶作の神奈川・浄楽寺阿弥陀三尊像(重文)の両脇侍像の表現に近い。作者について早急な結論は下せないが、鎌倉初頭の運慶一派の仏師の秀れた作例として注目される。
*聖観音菩薩立像
運慶・湛慶作
建久10年(1199)に没した源頼朝の供養のため、頼朝の従兄弟にあたる僧・寛伝が造った像。『瀧山寺縁起(たきさんじえんぎ)』には、聖観音像の像内に頼朝の髪と歯が納められたと記され、X線写真により、頭部内に納入品が確認されている。脇侍の梵天・帝釈天を合わせ三尊とも作者は運慶・湛慶とする。肉付きの良い体体と写実的な着衣の表現など運慶の特色が顕著で、『瀧山寺縁起』の記述は信用できる。表面の彩色は後補。
⑫ 東京・宗教法人真如苑蔵(半蔵門ミュージアム保管) 大日如来坐像(重要文化財) - 建久4年(1193年)。- もと個人蔵で、2008年3月にクリスティーズ社のオークションに出品され、真如苑が三越に依頼して1,280万ドル(約12億5千万円)で入手した。その後東京国立博物館への寄託(7年間)を経て、東京都千代田区の半蔵門ミュージアムで公開。『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』に見える、樺崎寺安置の厨子に建久4年(1193年)銘のあった大日如来像に当たるもので、その作風やX線写真によって知られる像内納入品の状況から運慶作品と推定する説がある。