血圧値 115/73/86 酸素飽和度 98% 体温 36.2℃ 体重 69.7キロ
朱雀門から平城宮跡の東側隅を迂回して法華寺に行くのですが、途中、近鉄の踏切を渡り、桜並木を遠望する畑道を通ります。
奈良時代も、こんな感じでのどかだったのかな。
傍らに、「東院庭園」という古代の庭園が復元されています。
称徳天皇の時代に宴会や儀式を催した庭園を復原したもので、こんな感じ。
池の中に、宴会場のような施設があります。
玉砂利の渚と半島がお洒落です。
平安・鎌倉時代の庭園もこんなイメージですね。
そして、民家の中を抜けて、集落の中にひっそりとたたずむお寺に到着。
法華寺です。
秘仏公開中の看板が。
境内にも満開の桜、門を潜れば。
にゃんこのお出迎え。お寺って猫が似合いますよねえ。
桜、いろいろ。
法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の后・光明皇后の発願によってはじまりました。
父・藤原不比等の死後、皇后は子どものころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮を宮寺に改められたのが法華寺です。
光明皇后の慈悲の心を受け継ぐ尼寺|法華寺|門主/樋口 教香|特別講話24|祈りの回廊 2018年春夏版|特別講話|祈りの回廊 [奈良県 秘宝・秘仏特別開帳]
ポイントは、こんな感じ。
①奈良時代に、光明皇后が自らの皇后宮を寺に改め、法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と称したことに始まります。光明皇后の慈悲の心を伝える寺であると言えます。
1000人の庶民に沐浴の功徳を積まれたとの話もあり、境内には江戸時代再建の浴室「からふろ」もあります。
当時沐浴は、体を清潔にして病を治すのに有効でした。「悲田院(ひでんいん)」「施薬院(せやくいん)」は有名ですが、浴室も同様のものだったと思います。
③本尊には、蓮池を渡る光明皇后のお姿を写したと伝わる十一面観音をお祀りしております。秘仏で開扉時期は限られていますが、それ以外も白檀のご分身像を拝観いただけます。
お堂に上がって、重々しく黒塗りの厨子の扉が開かれている、ご本尊を拝見します。
椅子が並べられていたので、そこでしばらく時を過ごします。
やはり、ご本尊の御前に対峙できるのは、感慨がありますね。
ただの木材なのに、意味を持つ虚構として受け止める力。
これが僕たちヒトの歴史を、このように推し進めてきたのです。
資料やデータではなく、いま、目の前にあるもの。
触れば、その実体の存在に触れられるもの。
仏様に会う、ということはそういうことです。
さすがに写真撮影は禁止でしたので、オフィシャルな資料を貼ってみます。
「本尊・十一面観音菩薩立像は良質の榧(かや)材の木目を生かした檀像(だんぞう)風の一木造で、蓮のつぼみや葉を後光のように配した珍しい光背を持ちます。そのお姿は光明皇后が蓮池を渡られる姿を写したものと伝えられてきました。
長年秘仏であったため造立当初の姿をよく保っており、目鼻立ちのはっきりとしたお顔や唇のほのかな紅の色、天衣(てんえ)の端をそっとつまんだ長い右腕が印象的です。左手には宝瓶(ほうびょう)を持っています。また右足は膝から浮かせて少し前方に踏み出し、親指の先を軽く跳ね上げているのも特徴的です。」
「天平時代の風格をそなえつつ、密教の影響をよく表した傑作」と呼ばれています。
なんといっても蓮の花とつぼみをシュールにデザインした不思議な光背が目を引きます。これって、オリジナルなのだろうか。
明らかに水の上を歩いているような動感。踏み出した右足親指の反り方が妖艶ですらあります。
「光明皇后」というフェミニンを感じざるをえません。
これについては「興福寺濫觴記(こうふくじらんしょうき)」に聖武天皇の妻・光明皇后が蓮池を渡る姿を写して造仏されたという伝承が記されています。
乾陀羅国(けんだらこく・ガンダーラ)の見生王は生身の観音を拝みたいと熱望していたところ「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」という夢告があり、仏師・問答師(もんどうし)を日本に派遣し、問答師が光明皇后をモデルに3体の観音像を造仏し、その1体が法華寺の十一面観音菩薩立像である、という伝承になっています。
ちょっと怪しい、謎めいた伝説ですが、美熟女を「観音様みたいだ!」と尊ぶ習慣は、こんな昔からあった、ということですね。
ともあれ、お会いできて良かった。
これから再び平城宮跡に戻り、見残している建物を見て帰ります。
以下次号。