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鎌倉で運慶作と伝えられている仏像のリストです。
涼しくなったら出かけて行って、自分の眼で確かめよう!
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①光触寺 阿弥陀如来像
~「頬焼阿弥陀縁起」(国重文)に描かれた仏像~
“身代わり説話”が伝わります。
鎌倉に住む“町の局(つぼね)”という女性が源実朝の招きで鎌倉に来た“運慶”に依頼して“阿弥陀三尊像”を作ります。ある時、家の下男の万歳法師が盗みの嫌疑を受け、頬に焼印を押されますが痕がありません。局の夢に阿弥陀様が現れ「何故、私の顔に火印を押すのか」と頬の焼印を見せると局は驚いて万歳法師を赦します。阿弥陀様が身代わりに焼印を押されたんですね。
教恩寺(時宗)は、一ノ谷の戦いで捕らえられた平清盛の五男重衡が信仰した阿弥陀如来を本尊とする寺。
重衡は、南都焼討によって、奈良の東大寺や興福寺を焼いた武将。
一ノ谷の戦いで捕らえられて鎌倉に送られてきた際に、源頼朝より一族の冥福を祈るように阿弥陀像を与えられたのだといいます。
その像が教恩寺の本尊で、運慶作と伝えられています。
~圓應寺の閻魔大王を造ったあまりの木で造られたという阿弥陀如来と、北条時頼夫人の身代わりとなったという「裸地蔵」~
本堂内には本尊の阿弥陀如来像、観音菩薩像、地蔵菩薩像がまつられている。地蔵菩薩像は北条時頼夫人の守り本尊で別名を「身代わり地蔵」と呼ばれる。
それは、ある日、北条時頼夫妻が双六で負けたほうが裸になるという賭けをやった。この勝負は時頼夫人のほうが旗色が悪く、負けそうになったとき、夫人は日頃信仰する地蔵菩薩を念じたところ、地蔵菩薩が裸で双六盤の上に立って夫人を救ったという。
それから夫人は地蔵菩薩をいっそう信仰し、この地蔵像を作らせたという。この地蔵像が裸で女の姿をしているのはそのためであるという。普段は法衣を身にまとっている。この像は女性の姿をした珍しいものであるためか江戸へ出開帳(寺院の本尊や秘仏を他所で開帳すること。寺社の修繕費や経営費を得るための方法でもあった)を行ったこともあったという。
しかし、やはり裸体の女性像には様々な意見があったと言えよう。『新編鎌倉志』には「総じて仏菩薩の像を裸形に作る事は、仏制に於いて絶てなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起さしめん為の仏を、何ぞ猥褻の体に作るべけんや」(すべての仏や菩薩の像を裸形に作ることは仏の教えにはまったくないことである。人のつつしみ、敬う心を起こすための仏を、どうして猥褻な体に作ることがあろうか。)、『鎌倉攬勝考』には「不敬の形に造り、仏を玩戯にするにやあらん。信じがたし。」(不敬の形に作って仏を玩戯にしたのであろうか。信じがたいことだ。)と江戸時代の地誌には評判が悪い。ただ、このような仏像は鎌倉には他にもある。
延命寺の「裸地蔵」は、運慶作とも伝えられていますが、運慶の生きた時代と、北条時頼夫妻が双六をした時代とは、どうも合わない。
鎌倉時代には、裸形像を造って新しい衣に着せ替え、生きている仏のように拝むという信仰が各地で見られたという。
鎌倉の裸形彫刻としては、この裸地蔵の他、鶴岡八幡宮の弁財天像、青蓮寺の鎖大師像、江ノ島の弁財天像、薬王寺の日蓮像などがある。
「裸地蔵」は、「身代わり地蔵」として鎌倉二十四地蔵の一つに数えられている。
拝観時間:午前9時~日没
駐車場:なし
拝観料:志納
山号:南向山(なんこうざん)
宗派:真言宗大覚寺派
創建:1181年(養和元年)
開山:文覚(伝)
開基:源頼朝(伝)
鎌倉補陀洛寺は源頼朝の祈願所として1181年(養和元年)創建されました。開山は武士出身の文覚とされているのですが、なぜ文覚が出家したのかと言いますと、渡辺渡の妻である袈裟御前を殺した罪によるものでした。文覚は出家したのち、後白河法皇に荘園の寄進を迫ったことで伊豆に流されたのですがそこで頼朝と出会ったのです。
創建当初は七堂伽藍をもった壮大なお寺だったのですが、由比ガ浜で発生した竜巻がこのあたりを通り、たびたび大きな被害をうけたため「竜巻寺」と呼ばれています。
補陀洛(ふだらく)とは、サンスクリット語の音を漢字に当てはめたもので、「観音菩薩が住む山」という意味。
本堂には平安時代の作と言われる智証大師の不動明王像があります、またレアな頼朝自作の頼朝像や東大寺の四聖と言われている行基作の薬師如来像、弘法大師作と伝わる地蔵菩薩像、運慶作と言われる日光・月光菩薩のほか平家の赤旗が寺宝としてあります。
本尊の十一面観音、薬師如来(行基作との伝)、日光・月光菩薩(運慶作との伝)。
また平家滅亡の際に、総大将である平宗盛が最期まで持っていたという平家の赤旗、文覚書という源頼朝の位牌、成就院の像と瓜二つの文覚上人像、源頼朝自刻の頼朝像など。珍しい寺宝は申し出れば拝観できるとのこと。
材木座の来迎寺はもともと、1194年(建久5年)に源頼朝が三浦大介義明(みうらおおすけよしあき)の菩提を弔うため建立した能蔵寺が前身。
開山の音阿上人が時宗に帰依したため1335年(建久2年)に改宗し、来迎寺となりました。
三浦半島の衣笠城(横須賀市)城主であった三浦義明は、源頼朝旗揚げの際に、畠山重忠(はたけやましげただ)の軍勢と戦い89歳で戦死。本堂の裏には三浦一族の墓100基もの五輪塔があります。
三浦大介義明とともに17歳の若さで戦死した多々良三郎重春の墓と言われる五輪塔もあります。重春は石橋山の合戦に加わり、平家方の武将畠山重忠の軍に討たれました。
来迎寺の本尊は、義明の守り本尊といわれる阿弥陀如来で、運慶作と言われています。
また、知恵の良い子を育てるという子育て観音もあり、庶民をお寺として親しまれています。
なお、鎌倉には如意輪観音が有名な来迎寺という同名のお寺が、鎌倉西御門にありますのでお間違いなく。
英勝寺は太田道灌の子孫である英勝院が太田道灌の屋敷跡と伝える地に建立しています。
天正十八年(1590)徳川家康は関東に入国して江戸城に入ると、名家出身の者を集め、太田道灌の子孫ということで、太田家にも声がかかりましたが、当主の太田重正は京都にいたため、まず妹のお八という13才の娘が召し出され、お梶と名を改め、家康の側室となります。
お梶は慶長五年(1600)の関ケ原の戦いにお供をして勝利を収めましたので、徳川家康から「梶を勝と改めよ」といわれ、以後お勝の方(局)と呼ばれ、家康との間に生まれた市姫が4才で亡くなると、水戸徳川家の祖となった徳川頼房の養母となりました。
家康が晩年を過ごした駿府城では、質素倹約につとめて家康の信頼も厚く、家康から男なら大名にも取り立てられるものをと言われたほどの人でした。家光が三代将軍になれたのも、お勝の方が春日局を家康に会わせたからだといわれます。
江戸幕府3代将軍徳川家光から寄進された運慶作と言われる阿弥陀三尊立像が本尊ですです。
木造阿弥陀如来及両脇侍像龕として平成19年(2007)6月8日に国指定重要文化財となりました。
仏殿の壁面上部には鳳凰、天井には天女の舞う姿や迦陵頻伽(かりょうびんが)、開基英勝院の実家である太田家の桔梗紋と徳川家の三葉葵紋などが極彩色で描かれています。
天井に固定されている二枚の梁牌は、平成25年(2012)8月7日に国指定重要文化財となった仏殿に含まれます。
⑧圓應寺 閻魔大王像
~娑婆に戻された運慶が造ったといわれる「笑い閻魔」~
鎌倉時代、寄木造。
像高187.5㎝
頭部は鎌倉時代のものであるが、その他は江戸時代のものと考えられている。
頭部がやや大振りで誇張された忿怒は力強いもの。
円応寺で赤ちゃんの名をつけてもらうと丈夫に育つということから「子育て閻魔」とも呼ばれている。
円応寺は、建長二年(1250年)に造られた閻魔大王を本尊とするお寺です。建長寺開山大覚禅師の弟子であり、建長寺第九世の知覚禅師が開山(最初の住職)です。閻魔堂、十王堂とも呼ばれ、亡者が冥界において出合う「十王」を祀っています。
円応寺は初め見越嶽(大仏様の近く)にありましたが、鎌倉幕府滅亡後足利尊氏が由比ヶ浜に移築しその後、江戸時代の元禄十六年(1703年)に起きた大地震後に 現在の地に移りました。
本尊の閻魔大王座像(国重要文化財)は、仏師「運慶」作と伝わります。運慶は頓死をして閻魔大王の前に引き出されましたが、閻魔様の 「汝は生前の慳貪心(物惜しみし、欲深いこと)の罪により、地獄に落ちるべきところであるが、もし汝が我が姿を彫像し、その像を見た人々 が悪行を成さず、善縁に趣くのであれば、汝を裟婆に戻してやろう。」といわれ、現世に生き返された運慶が彫刻したと言われています。運慶は生き返った事を喜び、笑いながら彫像したため閻魔様のお顔も笑っているように見えることから、古来「笑い閻魔」と呼ばれています。 又、山賊から守る為赤ちゃんを飲み込んだ事から「子喰い閻魔」その後その赤ちゃんが無事に成長出来た為「子育て閻魔」と呼ばれています。
~笑い閻魔の伝説~
重病となり仮死状態となった仏師運慶は、三途の川を渡り、初七日の秦広王の裁判、14日目の初江王の裁判、21日目の宋帝王の裁判、28日目の五官王の裁判を経て35日目の閻魔大王の裁判を迎えた。
閻魔大王の裁判では、生前の行いによって天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道のうち、どこに生まれ変われるかが決定される。
閻魔大王は運慶にこう言った。
「お前が娑婆でやさしい面相の仏像ばかり作るから、亡者が地獄にやってきても腰抜けばかりでろくな奴がおらん。もっと娑婆で悪人ばらを改心させてわしに手数をかけないようにしてもらいたい。お前をもう一度娑婆に帰してやるから、わしの姿に生き写しの閻魔王像を刻んで人間たちによく見せろ。そうすれば、悪人が改心して人間社会が良くなるはずじゃ。わかったらさっさと帰れ」
こうして娑婆に帰った運慶が彫ったのが、円応寺の閻魔大王像だと伝えられている。 生き返ることができて嬉しかった運慶は、閻魔大王像を笑いながら彫ったので、像もどことなく笑っているように見えることから、「笑い閻魔」と呼ばれている。
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しかし、いずれも運慶の真作とは確認されてはいません。
悪しからず。
でも、夢はありますね。