血圧値 129/79/86 酸素飽和度 98% 体温 36.5℃ 体重 68.0キロ
僕のチェロ友にサエさんというかたがおられて、彼女が学生のころにフィールドワークをおこなったのが黒川の集落でした。
「戦前の黒川でおこなわれていた養蚕の様子や手順、養蚕の衰退から野菜や梨、柿を作るようになった経緯など、8割は蚕の話です。年3回の養蚕中心の生活を通して、生活の歴史をみていくという流れです。明治大正生まれの話者から聞き書きして、生活の歴史を後世に残さなくてはという思いで取り組んだレポートが、実家じまいをしたときにでてきました。」
こういうお話を以前、お聞きしたことを思い出したことが、僕が今回黒川を訪ねるきっかけとなったのです。
サエさんに、「多摩ニュータウンの近くに里山の風景が広がる面白いエリアがあるよ。明治大正生まれの人たちが元気な今のうちに聞き書きしたほうがいいよ」と黒川のフィールドワークをすすめてくれた考古学専攻の他大学の先輩のかたは、あの地が、多摩ニュータウン構想とかでいずれ消滅する恐れがあるからということで、そうおっしゃったのでしょうね。
でも失速して滅びかけたのはニュータウンのほうで、里山はしぶとく生き残っています。
これはほんとに、民俗の力、みたいなものを考えさせられますねえ。
養蚕をやめて、農地を売って、団地を建てさせた人たちは、忸怩たる思いでいまのニュータウンの現状を眺めているのでしょうか。
まあ、それも時代だ、と思っておられるのかな。
これはどちらかが正しいとか、やらかしたとか言う問題ではないでしょう。
僕のような無責任な傍観者が、どうこういうことでもありません。
これからの、ニュータウン地域の蘇りに期待したいと思うけど、どうなるのかなあ。
まったく新しい方向性が開けることもあるのでしょうか。
僕の親父の時代、戦後の経済成長期に、せっかく夢を持ってここに住んだ人たちの、こしかた行く末。
先祖代々、お隣の里山で受け継がれていくあのしずかな、そして粘り強い農耕生活。
あまりに対照的な二つの世界が、透明なバリアで分かたれているような、不思議な峠の風景。
「よこやまの道」の中ほどの「防人見返りの峠」からの展望です。
よこやまの道が通っているのは、南多摩尾根幹線のすぐ南を走る多摩丘陵の尾根筋の上です。
この尾根筋は古代の幹線道路が通っていたルートであり、また、多摩丘陵が万葉集で「多摩の横山」と呼ばれていたことから、「よこやまの道」と名付けられました。
古代には水はけがよく、また敵の接近を察知しやすい尾根筋に道を通すことが多かったのです。
発注している靴ができたら、この峠をはじめとして、この辺りをいろいろ見て歩きたいと思います。
僕がまだ元気ならね!
☆
前回触れた、上手く行ったほうの「ニュータウン開発=多摩田園都市」について。
簡単にご紹介。
一目で分かるように、こちらは東急電鉄の田園都市線(もっと言えば、大山道かな)が基幹となる巨大プロジェクトです。
「多摩」の場合とは真逆で、こちらは居住者人数が予想を大きく上回って、隆盛の限りを尽くしています。
鉄道も不動産も商業経済も順調。
人口60万人規模に大成長、その鍵は「電車を作ってから人を集めた」だったのですが、こちらに関しても、「見て・歩いて」、またここに書く機会があるでしょう。
この稿は終わりとします。