血圧値 129/85/82 酸素飽和度 98% 体温 36.1℃ 体重 64.0キロ 運勢 The Hermit
高速列車アフラシアブ号に乗ってサマルカンドからタシュケントへ、という魅力的な方法があるのですが、僕たちのバスを乗り捨てるわけにはいかないので、最後の砂漠横断のルートを行きます。
列車だと2時間、バスだと5時間ほどかかります。

線路に沿った道を行きます。

スルーガイドのイネッサさんとも、今日でお別れ。

お昼はタシュケントのシェラトンホテルのビュッフェ・スタイル・

タシュケント(Uzbek: Toshkent, Тошкент 、Russian: Ташкент, Tashkent, )は、ウズベキスタンの首都。
人口219万人は中央アジア最大級です。
ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。
『艦これ』では、こちらのかたがおなじみでしたね。

嚮導艦(きょうどうかん)(flotilla leader)は、駆逐艦(水雷戦隊)を指揮する旗艦のこと。
小型巡洋艦あるいは大型駆逐艦がその任に当たり、駆逐艦の場合は嚮導駆逐艦(きょうどうくちくかん)(destroyer leader)と呼ばれるのですが、日本帝国海軍の場合は軽巡洋艦がそれにあたります。
「ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場(Navoi Theater)」は、ソビエト時代に建設された格式ある劇場。ウズベキスタンの伝統芸能やバレエ、オペラ公演が楽しめます。


第二次世界大戦が終わっても日本に帰れなかった抑留兵士たちがソ連軍に命令されて作ったと言われるナヴォイ劇場。
総床面積1万5000平方メートル、客席1400席を有する煉瓦作り3階建てのビザンチン風建築のオペラハウス。
正式名称は「アリシェル・ナボイ劇場」。 建物内部にはいくつかの間やパーティの部屋があり、壁装飾は中央アジアの各地域の特色を生かすよう工夫されている。
オペラハウスの建設開始後、ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月7日の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。
しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された。
ソ連の捕虜になったのは合計60万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった。
かつてタシュケントをおそった大地震でここが避難所になったのは有名な話。

劇場裏手の記念プレートには以前ウズベク語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てたものである」と書かれていた。これをみた独立後大統領に就任したカリモフ大統領は「ウズベクは日本と戦争をしたことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「捕虜」と使うのはふさわしくないと1996年に新たなプレートに作り変えられた。
「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれ、これを見た日本人の多くはこの史実を知り涙している。
劇場建設での日本人の働きぶりを見ているうちにソ連の収容所長やウズベク人たちは次第に日本人捕虜に敬意を表し、心温まる友人関係や地元女性との恋なども生まれたそうです。
このあと地下鉄で移動したり、国営デパートを見学したり、賑やかなお土産屋さんの屋台が並ぶ街を歩いたり。


そして、空港内レストランで最後の晩餐。
アシアナ航空でソウル経由、日本へ帰還。
9日間の、パミールの西への充実した旅を終えることとなりました。