血圧値 111/67/78 酸素飽和度 97% 体温 36.6℃ 体重 67.5キロ
ずいぶん長いこと、「授業」を仕事として働いてきました。
なんだかんだと40年くらいかな。
高等学校で、社会科の、主として歴史(世界史)の教師として。
病気になりましたので、もうこの仕事には戻らないかもしれませんが、ちょっと寂しい気持ちになります。
面白いもので、「仕事」って、面倒ごとの最中にあるときは「もうやめてやるぞ!」とか思うけど、いざそうなると、けっこう未練が生じたりするものですよねえ。
自分勝手だ。
経験者はお分かりのように、教師の仕事はいろいろ雑多で(ていうかこれが重要なのかもしれないけど)、教科を教えるという割合は、50%くらいかな。小学校なんかもっとこの比率が小さいと思うけど。
まあ、それでも教師の本分は「授業」でしょう。
生徒(学生)の側から見れば、人間同士の最前面の接触点だし。
「言の葉の庭」の雪野先生は、タカオの2年先輩の、高校3年生の男子生徒からの嫌がらせを受け、退職するほどまでに追い込まれてしまった女性です。大人になりたい少年と大人になりきれない女性のひと夏の淡い恋愛、なのかなあ?
この作品のテーマは、じつは、「雨」の描き方です。
透明な水である雨を映像で表現するのは、とても難しい。
そこに挑戦しています。
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は学校をさぼり、日本庭園で靴のスケッチを描いている。
そこで出会った、謎めいた年上の女性・ユキノ。
やがて二人は約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、心を通わせていくが、梅雨は明けようとしていた。
「言の葉の庭」の中にでてくる和歌は、対になっていて、雪野先生が言っていた言葉を、古典のコーナーでタカオが探して、雪野先生に返歌します。
「君の名は。」の中では、三葉と瀧の入れ替わりを知らないのに、伏線のように古典の中の言葉を黒板で紹介します。
というわけで、「授業」を定義します。
「授業」とは:
倶会一処、先生と生徒が、生涯のある場所・ある時間にともに一回だけ出会う、奇跡の瞬間のこと。
「倶会一処 くえいっしょ」とは『阿弥陀経』にある言葉で、「ともに、一つ所に会う」、と読みます。
狭い意味では、浄土教の往生の利益として、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味に解釈します。
僕は、もう少し広い意味でとらえています。
出会いは、いつも偶然で、そして必然です。
縁がなければ、二人の人間は絶対に出会えません。
縁があれば、どんな不可能を乗り越えてでも、出会えます。
それは、必然だからです。
教室で、偶然あなたと出会った、縁。
これがお互いの生涯に大切なものとなるのであれば、幸せです。
そのために、学校があるのです。
人としての出会いと交流が不要であるなら、学校という入れ物と授業というスタイルは不要です。
コロナ過の状況は、この問題に重要な提案と試練を課しています。
この前、「恋愛」を定義しましたが、これはそのひとつの変奏です。
0530 起床 気分快 晴 「恋愛」を定義します。 - にこたろう読書室の日乗 (hatenablog.com)
ちょっとナロウな定義かな。