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今朝も、涼しいですね。なんとなく風邪を引いたかも。
舞鶴・北滋賀の旅の記録の続きです。⑤は引込線・海軍カレー・海軍墓地の話、です。
【10月1日(土)その2】
海軍記念館を出て、左に少し行くと小さな公園があり、SL(C58 113号機)が1両保存されています。ここは、中舞鶴駅という、引き込み線の駅があったところです。
東舞鶴駅(当時は新舞鶴駅)から分岐して、赤れんが倉庫群を通り、舞鶴鎮守府・機関学校・海軍工廠の中心部まで、人や資材を搬入するための軍用引き込み線です。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には1日5000人以上の乗降客数があり、舞鶴・小浜両線から海軍工廠への直通貨物列車も多数運転されていたそうです。
このレイアウトだと、東舞鶴駅でスイッチバックしていたでしょうね。御召列車もここまで入ったのだろうか。
レンガ倉庫には、このジオラマが展示されていたそうですが、今は無いようです。残念。
左辺の大講堂(海軍記念館)・機関学校、右上の中舞鶴駅(今は無い)、右辺の丘の上の鎮守府司令部(今は無い)、右下の海軍工廠(今は民間造船所)。位置関係が良くわかりますね。
海軍工廠の平面図はこんな感じ。
入江の、湾に面した狭い土地を開墾してならした地形です。
後で触れる、ドック開削時の落盤事故は、ここで起きたのですね。
1972年3月の時刻表の地図には、引込線がちゃんと載っています。民間利用もしてたみたいです。
この、東舞鶴駅から中舞鶴駅までの廃線跡は、綺麗な遊歩道として保存されていて、自転車や歩行者が利用しています。
途中にあるトンネルが、大正浪漫ぽいですね。
登録有形文化財の「北吸トンネル」。
僕は今回、ここを何度も通りました。駅前からレンガ倉庫地区に行くには、ちょうど良い近道になります。
さて、中舞鶴駅跡を抜けて、ちょっと南下したあたりに、海軍カレーで有名なお店があるので、ここでお昼にしましょう。
鉄板カレーを食べます。護衛艦「しらね」のレシピだそうです。
自衛艦内の食堂の食器は、こんな風に合理的な1枚プレートになってます。
なので「鉄板」カレー。
カレーには牛乳、というのが旧海軍以来の伝統ですね。
これは美味しかったのですが、少々食べ過ぎの感がありましたね!
「しらね」は1980年の就役当時、最大の護衛艦であったこと(5200トン型ヘリコプター搭載護衛艦)、旗艦設計のためVIPを接遇できる公室等の設備を備えることから、外国艦艇訪問時のホストシップ、政府関係者の視察受け入れや、各種広報協力等を行い、また観艦式においては国際観艦式も含め10回にわたり観閲艦を務め、国内外を問わず露出の多い艦だったそうです。
最初は横須賀配備でしたが、2009年、護衛艦「ひゅうが」の就役に伴い第3護衛隊群第3護衛隊に編成替えとなり、舞鶴に転籍となりました。
この艦名については面白い話があります。
海上幕僚監部では進水直前、山岳名でもある旧海軍の金剛型戦艦からの命名を希望し、その旨を海上幕僚長から当時の防衛庁長官だった金丸信に進言したが、金丸はこれを退け、自らの出身地である白根町からとって「しらね」とすることを強引に命じたため、このような変則的命名となったそうです。
思うに、前級のヘリコプター搭載護衛艦の艦名が「はるな」「ひえい」なので、「こんごう」か「きりしま」を使いたかったのだと思います。
金剛4姉妹!
さて、カレー屋さんのちょっと先にある、真宗寺という小さなお寺の敷地内にある慰霊碑を見ておきます。
明治32年5月、舞鶴海軍工廠の前身である「舞鶴造船廠」の第2船渠を掘削中に落盤事故が起きて63人の犠牲者を出し、その永代供養のためにこのお寺を建て、碑文を納めたのがこれだそうです。合掌。
この件は地元でもあまり知られていないみたい。
戦争は、いろいろな形で人が亡くなるわけですから、慰霊の場というものが軍港周辺にはいくつも存在します。
僕は鎮守府を巡る際には、必ず現地の「海軍墓地」にお参りすることにしています。
普通の人の、ささやかな人生に、突然降りかかる不条理な死。
死なれた人の思い。歴史に封印されて忘れられてゆく悲しみ。
墓地の碑文の前には、そんな思いの切り口が、まだ生々しく息づいているような気がします。
僕の親族で戦争で亡くなった人は1人だけですが(他の叔父さんとか3人は、生還できました。捕虜にはなったけど。)、「遺族」と呼ばれる立場にある人すら、もうほとんど居なくなりつつあるのでしょう。
さて、ここから引き返して、先ほどの中舞鶴駅の西側の丘の上が共楽公園と呼ばれていて、その裏側に「海軍墓地」があります。
4大鎮守府の中では一番控えめな規模かな。
丘の途中に、二段に分かれて設営されてます。
艦艇別や部隊別に、ご遺族や縁者の方たちが建立する場合が多いのですが、目につくものをいくつか挙げておきます。
個々の艦についてのコメントは省略しますが、けっこうユニークなラインナップですよね。(詳しい方はわかりますね!)
これは、舞廠が20年7月末に空襲を受けたときの犠牲者と、外地で戦死された舞廠関係者のための合同慰霊碑で、墓地とは別の、遠く工廠を見下ろすような丘の頂に建ってます。
このように、眼下に工廠跡地の造船所と軍港を一望にすることができます。
『中舞鶴校百年誌』
舞鶴空襲
終戦間近い明年の7月29日と30日の両日、舞鶴も空襲を受けた。昭和47年8月15日「府政だより」によるとその被害状況は次のとおりである。
20年7月29日8時30分、舞鶴海軍工廠へ五百キロ爆弾1個投下
死者97名(勤労学徒ほか)
重軽傷者 百数十名
7月30日午前、午後の2回、艦載機約60機、舞鶴港内の艦船の大半が撃沈あるいは浅瀬に乗りあげ沈没を回避した。
死者83名 重傷者247名
これらの死者、負傷者の全貌は明らかでなく、又本校卒業生が幾人含まれているかの調査も行なわれていないが、目下のところ瀬野嘉弘氏(大5高卒)が工廠空襲で殉職されていることは確認されている。
舞鶴は、市街地は焼夷弾の絨毯爆撃は受けていないのですが、工廠への7月29日と翌30日の両空襲の性格は異なっています。
7月29日は通常爆弾ではあったが、長崎に投下されたプルトニウム原爆の模擬爆弾でした。
長崎原爆と同じ大きさ形状重さに作られている原爆投下訓練用の通常10000ポンド爆弾「5トン爆弾」「パンプキン爆弾」などと呼ばれているものがB29から1発投下されたのでした。
パンプキン爆弾は実物大の模型(長崎原爆と同形状で、本物は長さ:3.25m、直径:1.52m、重さ:4.5トン。主体はプロトニウム239で、内爆型、球形のケースに収められていて、外側の通常火薬の爆圧で、プルトニウム239を圧縮して、連鎖反応を起こさせるという。生まれるエネルギーはTNT火薬2万トン相当、実際には2.1~2.2万トンと推定されている)であったそうです。
この慰霊碑からちょっと離れたところに、単装砲の形をした大きな日時計がありました。
今日という日は、いまここに、1回しかありません。
「カルペ・ディエム」(今日の花は、今日のうちに摘め。)
いのちは、いま、ここにしか、ないのです。
亡くなった人は、今日というこの日を、生きることができません。
生きている僕は、今日、なにを成し遂げたのでしょうか。
今日は、ここまでといたします。
この後、ナイトクルーズに出かけます。