にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0600 起床 気分快 雨 舞鶴・北滋賀遠征記録②舞鶴引揚記念館

血圧値 109/70/66 酸素飽和度 99% 体温 36.0℃ 体重 67.5キロ

 

なんと外気温14℃。そして今日の最高気温予測も14℃!

いきなり、風邪でもひきそうな寒さですね。

 

舞鶴・北滋賀の旅の記録の続きです。②は東舞鶴駅到着以後の行動です。「舞鶴引揚記念館」を訪ねます。

 

【9月30日(金)その2】

舞鶴の地形は、空から見ると、日本海が入江に入り込んで、複雑な海岸線を見せていますが、おおざっぱに言って、下を向いた鯨の尾のように、端が東西の二つの湾に分かれています。そこにそれぞれ港が置かれています。そして、二つの舞鶴駅。

 

こんな感じ。

「西舞鶴」には西港、「東舞鶴」には東港。

今居るのは、JR 東舞鶴駅です。

 

西は近世まで城下町として栄えたいわゆる旧市街、東は近代以降、軍港として整備発展した新市街、ということになります。

 

旧市街・西舞鶴は、戦国時代に細川幽斎細川藤孝)の田辺城建設から始まり、江戸時代は田辺藩の城下町として発展しました。また近代になると商業都市としても。

 

新市街・東舞鶴は、1901年に舞鶴鎮守府が設置され、軍港として発展します。その際、現在の東舞鶴駅前にあたる浜地区は、京都市に倣って碁盤目の道路網を形成しました。

何もないところに、突然、軍港都市が出現したわけですね。

軍港の特徴として、呉や佐世保も、広い道が縦横に計画的に構成されていますが、ここほどきっちりとしたプランではありません。

 

舞鶴では縦の道が一条から八条、横の道はそれぞれ明治時代の帝国海軍の戦艦の名前が付けられています。駅前が、「三笠通り」。僕が3泊するビジネスホテル「ウェーブ舞鶴」は、この道沿いの駅近です。

ホテルにスーツケースを置いて、ちょっと離れた「舞鶴引揚記念館」までタクシーで移動。バスは本数が少なくてほとんど使えません。

自転車があるとこの町は便利だと思いますが、今の僕は自転車に乗れない可能性があります。後遺症でスタビライザーが壊れているので、車道側に突然ひっくり返るかもです。後続の運転者さんは吃驚しますね!

 

10分くらいで到着。引揚桟橋のあった海岸を望む丘の上に記念館と公園があります。

ロビーの床には、終戦後にソ連軍により捕虜として抑留された各地の収容所の地図です。広いロシアの、とんでもないところまで点在しています。

終戦になっても日本に帰国ができず、シベリア鉄道の線路敷設や森林伐採等、過酷な労役を課せられた人々。

 

そういえばウズベキスタンでその話を聞いたことがありました。

日本兵が建てたサマルカンドの劇場の話。

これは収容所のジオラマ

 

全体を1/700で俯瞰したジオラマがあります。

見下ろした先の平らなところが、もとの舞鶴海兵団の地所で、戦後すぐに引揚受け入れの施設となり、引揚船が着く桟橋が造られました。

身内や知り合いが復員してくるのを、この桟橋で出迎える光景がここに。

公園から見た実写は、こんな感じ。

今は、材木工場になってますが、桟橋が復元されてます。(見に行かなかったけど)

 

引揚桟橋と言えば、これ。

菊池章子ヴァージョンがオリジナルで、二葉ヴァージョンがカヴァーですね。

岸壁の母とは、第二次大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。その一人である端野いせをモデルとして流行歌(1954年など)、映画作品のタイトルともなった。

 

実は、僕の叔父(母の兄。陸軍で通信兵だったのかな。)が満州ソ連軍の捕虜になり、戦後抑留されて強制労働に従事させられ、沿海州の収容所の病院で亡くなった、という経緯があります。

病院といっても、ほとんど死体置き場みたいなレベルのものだったと思いますが。

 

「引き揚げられなかった」人たち、「この桟橋を渡れなかった」人たちの一人なわけです。辛かったろうなあ。

この件については、いずれ稿を改めて。

 

「旧東舞鶴駅」のジオラマがありました。

実写はこんな感じ。

戦後の天皇巡行の時ですね。

戦時中の昭和8年にも天皇舞鶴に来ています。