にこたろう読書室の日乗

死なないうちは生きている。手のひらは太陽に!

0540 起床 気分並 晴 入院で学んだこと、あるいは終活について

リハビリ最後の日です。

今朝はなかなか良いお天気です。だんだん晴れてきました。少し涼しいのかな。

 

村松君(駒澤大学教授)が、電撃的に2度、差し入れてくれたものです。食べて寝てリハビリをする以外は暇なので、いろいろものを考えたり、思い出したりしているのですが、勉強をするのも楽しいですね。仏教の美術や思想背景については、昔から興味を持っています。

さしいれ

アイドルと巡る仏像の世界。アンコール放送のテキストなので、第2弾も近日再発売されるのでしょう。総合ナビは和田彩花アンジュルム、懐かしいな。この人は西洋美術も大学院で学んでいる才媛なのです。

今回も観させていただいて、いろいろ考えるところがあり、村松先生ともいくつかメールで議論を交わしたのですが、それはまたいずれ整理しましょう。あと、「鎌倉殿」とも関連して、鎌倉仏教の評価についても再考したいと思います。退院したら、鎌倉市歴史文化交流館にも行って来よう。

日常はルーチンですから、あっという間に時がたちますね。なんと、もう今日は退院の前日。僕も、家内が亡くなってかなりになりますが、あっという間のようでもあり、ずいぶん昔のようでもあります。そのうち自分が死にそうになったり、なんとか生き残って、エアポケットにはまったような入院生活も今日で88日目です(数字は末広がりでおめでたい)。

コロナの影響もあって、誰にも会わないし、外に出たのも、転院のとき、タクシーに乗り降りした数歩だけで、太陽光に当たる機会もほぼありませんでした。それでも、このリハビリテーション病院に移り、ついに退院予定が決まってからの2週間は、外歩きの訓練が可能になりました。ただ外に出るだけのことが、なんと遠い彼方のことに感じられたことか。自由というものは、不自由のなかでしか分からない、いのちの作用です。当たり前が、なんと宝物であることか。

でも、この入院生活が、苦しいとか嫌だったわけではありません。むしろかなり新鮮で、驚きに満ちていたのです。たぶんそれは、人と人との繋がりの賜物です。療法士さん・看護士さんたちとのリアルなつき合い。同僚やかつての級友や教え子や友人たちとのネット上の繋がり。不思議なことに、これまでほとんど交流や音信のなかった人たちと、メールやLINEのやりとりが繋がりました。

居木神社

これは近くの居木(いるぎ)神社という、けっこう由緒のありそうな神社で、古い記録によりますと、往古鎮座の地は武蔵國荏原郡木橋村(現在の山手通り居木橋付近)に位置していたようです。江戸時代の初期、目黒川氾濫の難を避けるために現在の社地に遷座されました。大崎の土地神みたいです。

お祈り

厄年だった!

なんと、今年の僕は、「八方塞がりの厄年」だそうです。道理でこんなことになっているわけですね!

それでも、このたびの入院リハビリテーション経験は、なにもない第一歩のところから、ヒトとしての行動の仕方とか、ものの考え方、他者との繋がりかたなどを、一から学び直し、体験し直すという稀有な状態にあり、それなりに愉しんでいます。療法士さんや看護士さんたちが、真摯で、明るくて生き生きしている、ということにも生きる意欲をもらえます。(~を貰える、という言い方はあまり好きではないのですが、安易に使ってみます。)

僕は、終活・断捨離の途中で今こうなっていて、とても困っているのだけれど、はたして僕がこれまでの人生から捨てようとしているものは何なのか、はたしてそれで良いのだろうか。どうせ死ぬときに、みんな捨てるのですが、では、まだ生きるために、残そうとするものは、何なのか。それはもともと、持ってなどいなかったものなのではないか。そんなことを考えています。

この3ヶ月の間、ほぼ何もない一部屋での独り暮らしです。あるものと言えば、ベッドと着替えが最小限度、TVとノートパソコンとスマホ、冷蔵庫、トイレ、シャワー。椅子と机。筆記用具。本が少々。眼鏡。おふろセット。洗面所セット。靴が3つ。音楽のCD2箱。これに3食のお食事。

こんなものかな。

一歩も外に出ない、必要最小限ものに囲まれた生活。これで十分生きています。それなりに楽しいし。情報さえ遮断されなければ、たぶん大丈夫。お金はとても心配だけど。

「終活・断捨離」と言って、捨てようと思うから迷う。逆に考えて、この最小限の生活にあと何を足す必要があるのかを考えれば良い。これではないか。

たとえば、マンションをもう一室借りる。買うではなく借りる。適当な広さのやつ。そこに今の最小限度の物を配置する。それに加えて、絶対に必要なものだけを、今住んでいる部屋から移動させる。よく考えながらね。

全部まとめて移しちゃうっていうのはやらないと思うんですよ、今の僕なら。究極の「断捨離」です。これを脳内でやろう!

次に、「終活」。たぶん「終活」という言い方が良くないのだと思います。いまにも死にそうになってから慌てて始めるものではなく、おそらく生まれた瞬間から始まっているべきもの、もう少し現実的に言えば、少なくとも「大人」になったという自覚を持ったときから、始めるべき人生への向き合い方の意識なのではないか、ということです。

人間は致死率100%です。この世に生まれたら必ずいつかは死にます。自分のことで言えば、家内が亡くなって、両親も既に亡く、子供もいない、ほぼ天涯孤独の身になった時に思います。つぎは自分だよなあ、葬式はどうするかな。といっても自分ではそれをできないし。でも、60歳ちょいだから、あと10年くらいは余裕があるから、と思いますよねえ、普通。それが、普通でもなんでもなかったということを、今回実感しました。

「終活」はしばらく先のことではない。いますぐ、そして毎日、普通に意識し続けるべきものなのではないのか。将来必ず来る死を見据えて、今を生きることそのものなのです。いかにご迷惑を少なくできるか、が現実的な課題ですが。

そんなことを、今回の病気と入院とリハビリテーションで僕は感じました。